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【仙台藩伊達家の能・終】伊達成実と伊達家の能

仙台城

長々と伊達家と政宗、そして成実と能との関わりについて述べてきた。

改めてまとめると、伊達家と能の関わりは、古く文明年間の十二代伊達成宗から始まり十六代伊達輝宗の代には本格化した。

後に仙台藩祖となった伊達政宗は幼少のころから能、特に太鼓に親しみ、家中にも舞い囃す楽しみが広がっていた。豊臣秀吉や江戸幕府の能楽愛好の下、将軍・大名の饗応における能楽の重要度が更に増すことを感じ取った政宗は、関ヶ原の合戦以後、何人もの小姓・近習たちを能役者へと仕立て、また名のある上手を抱えていった。

仙台においては、桜井八右衛門を始めとする金春流が中心であったが、江戸においては将軍秀忠の後援を得た初世北七大夫も重用し、後に仙台藩の能役者にも喜多流が加わる礎となった。

成実も政宗周辺の能楽愛好の影響を受け、謡本を所持し、謡の素養があった可能性は高い。屋敷での催能の記録もあり、また《実盛》の能に感泣したという話もあり、かなり好意的に能に接していたと考えて良いだろう。

伊達政宗以降の伊達家と能楽

江戸期を通じて、仙台藩は能楽を特に重視した藩のひとつであった。特に五代藩主・伊達吉村は能楽を愛好し、金春別家の大蔵庄左衛門家と桜井八右衛門家の伝承を元にして新たに「金春大蔵流(大蔵流とも)」を創設し、一門・一族・藩士たちに広く浸透させた。

現在、金春大蔵流の玄人の能楽師は存在しないが、宮城県登米市では「登米能」として伝承され、1996年には活動拠点「伝統芸能伝承館(森舞台)」を建設、年二回の薪能を公演するなど、盛んな活動が行われている[1]金春大蔵流と登米能については、田村にしき「戦後における登米能の伝承」(『民俗音楽研究』35所収、日本民俗音楽学会、2010年)に詳しい。

登米能のほかにも、宮城県内では大蔵流や春藤流(能楽師の間では伝承の絶えたワキ方流儀)の謡が伝承されている[2]田村にしき「宮城県北部における謡の伝承について―『春藤流謡曲保存会 鉢の木会』を例に―」(『東洋音楽研究』74、東洋音楽学会、2008年)

それらの能や謡の伝承が残るのは、登米・涌谷・岩出山と伊達一門に列する支藩の領地であるが、亘理伊達家伝来である伊達市開拓記念館蔵の能楽資料の数々と同様、伊達一門における能楽愛好の名残を伝えるものなのであろう。

全体の感想

割と軽い気持ちで書かせていただくことを決めたこの文章ですが、伊達家と能楽の関わりの大きさ・深さは想像以上でした。

そのために文章量がふくれあがり、当初の『余るも夢の』の〆切をたびたび延ばしていただくなど、編集の陣さんには多大なご迷惑をお掛けいたしました。それにも関わらず、陣さんや武水しぎのさんからご提示いただいたり、先学や「仙台藩演能記録」にて触れられた史料を確認するだけに終始してしまった感が拭えません。

何度も言及した『政宗記』『木村宇右衛門覚書』『政宗公名語集』についても、全体を通読できず関係箇所の拾い読みになったこと、多くが翻刻されている伊達政宗書状もほとんど確認していないなど、今すぐにでも思いつくことながら、手つかずの部分が多いです。それでも、私にとってはほぼ初めての、直に史料にあたって調べる良い経験となりました。

拙文ではありますが、この文章を通じて、成実や伊達家を愛する方々に、彼らが親しんだ能楽の世界を少しでも知っていただければ、伊達家と能楽に愛着を持つ身として、本当に嬉しく感じます。内容の未熟や文章のまずい部分などは、全て私の力量のなさゆえです。

この文章を書くにあたって、参考にさせていただいた先学の業績や、資料を頂戴したり、直接お教えいただいた方々への感謝を記させていただいて、ひとまず筆を置くことといたします。

脚注

脚注
^1金春大蔵流と登米能については、田村にしき「戦後における登米能の伝承」(『民俗音楽研究』35所収、日本民俗音楽学会、2010年)に詳しい。
^2田村にしき「宮城県北部における謡の伝承について―『春藤流謡曲保存会 鉢の木会』を例に―」(『東洋音楽研究』74、東洋音楽学会、2008年)
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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