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【戦国伊達家の能1】上洛して奈良で薪能も見た 十二代・伊達成宗と能

興福寺五重塔

「能楽と郷土を知る会」代表の朝原は、戦国時代の東北地方の雄・伊達家好きです。その出会いはNHK大河ドラマの『独眼竜政宗』(1987年放送)。放送当時はさすがに子どもでしたので、実際には成人してから後にDVDで見たのですが、渡辺謙さんが演じる伊達政宗のほか、魅力的な武将たちが活躍する群像劇に心奪われたものでした。

大河ドラマ『独眼竜政宗』で外すことができないポイントが、能が登場するシーンがたくさんあったこと。喜多流の能楽師たちが出演され、さまざまなシーンで描かれましたし、伊達政宗を演じる渡辺謙さんや豊臣秀吉を演じる勝新太郎さんが、その芸を披露する場面も多々ありました。

それ以来、ゆるい戦国伊達家好きとなった朝原ですが、2012年に大きなきっかけを得ます。それは、政宗の従弟で、重臣だった伊達成実を中心とした歴史創作をされている陣さんに、成実アンソロジーを作るので、何か書いてみませんか?とお誘いいただいたこと。

そのきっかけは、2010年に逝去された能楽史研究の第一人者・表章先生のご著書『喜多流の成立と展開』(平凡社、1994年)を読んでいたところ、伊達成実が所持していたらしい謡本の紹介があり、それを面白がってTwitterでつぶやいたことでした。

お誘いを幸いに、元々戦国大名の能について興味があったので、調べて文章にしてみました。それが「調べたことを、形にして出す」という習慣のきっかけになりました。今の自分につながるひとつの転機になった出来事だったと感じています。

以下、成実アンソロジー『余るも夢の』(発行:円陣、2013年)に掲載した拙文「成実と伊達家の能」を、何度かに分けて一部加筆修正を行った上で、再掲載していきます。

伊達政宗が活躍した東北地方は、私が住んでおります兵庫県とはかなり離れていますが、「地方の歴史と能楽」という点では同じかと考えております。しばらくお付き合いいただければ幸いです。

奥州の雄・伊達成宗、能にも触れる

さて、以降の文章は「だ・である」調で書かせていただく。まず、戦国伊達家と能の関わりに至る前に、その背景となる伊達家が、いつごろから能楽と関わりを持ったのか、遡りたいと思う。

伊達家は鎌倉時代にまで遡る名族である。はっきりと能楽との関わりが確認できるのが、室町時代後期、伊達家の十二代当主・伊達成宗(1435〜1487)の時代である。

成宗は文明15年(1483)10月に2度目の上洛を行い、室町幕府八代将軍・足利義政、その子・義尚および御台所・日野富子の元に出仕して、伊達家の実力を中央に広めることに成功した。その際の記録が、『伊達成宗上洛日記』で、諸方に贈った莫大な品々が記されている。その中には

廿二日、くハんせ観世の太ゆふ、御やとへまいり候ニ、むま一ひき、ときけ鴇毛くたされ候。[1]『桑折町史5 資料編2 古代・中世・近世史料』(桑折町史、1987年)所収資料143。

とある。成宗が10月22日に観世大夫五世・之重(祐賢、1447〜1500)に対して、鴇色(朱鷺色とも、トキの風切羽や尾羽のごく薄い赤)の毛の馬を与えたという記録である。

また続く11月3日の条には「松岡宿」において

明夜まて色々御酒、さるかう猿楽出仕候、御さしき桟敷うち御すハう素襖候。

とあり、成宗は酒宴の中で猿楽の能を楽しんでいる。能役者の名前は記されていないが、観世大夫之重の能であったかと思われる。残念ながら演目も記されていない。

この当時、足利義政の頃の実態を示すとされる武家故実書には、謡初・松囃子といった能に関わる正月の行事や、将軍が大名邸に御成する際には必ず能の饗応があったことが記されていた。つまり室町幕府において、既に能は儀式に欠くべかざる芸能「式楽」として成立していたのである。[2]天野文雄『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(講談社、1997年)23~4頁。成宗が観世之重に馬を与えたのも、室町幕府の式楽を司る観世大夫であったためであろう。

なお、その翌文明16年2月。奈良にいた成宗は、興福寺薪能を見物したらしい。当時の伊達家の上洛の行き先は京都のみではなく、伊勢・熊野・大和の巡歴も含まれていたのである。[3]小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1959年)9~10頁。

見物した興福寺薪能は大和猿楽四座(観世・金春・宝生・金剛)の大夫によって7日間催される能の興行である。文明16年は2月6日から始まり、12日に終わった。興福寺の別当である大乗院門跡尋尊は『大乗院寺社雑事紀』の12日条に

と記している。これが、筆者が確認した中では最も古い伊達家と能との関わりである。

成宗にどれほどの能の嗜みがあったのかは全く不明であるが、九代・大膳大夫政宗が『新続古今和歌集』に2首入選される歌人でもあり、成宗も都を去るにあたって1首を詠じたというように、[5]平重道ほか『仙台藩史料大成 伊達治家記録1』(宝文堂、1972年)解説。伊達家は代々文化にも精通していた。

成宗が当時の中央の文化の一つとして、能にも大いに親しんだと想像するぐらいは許されよう。

この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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