【仙台藩伊達家の能5】「打振、男振は、親よりも増したり」伊達政宗が抱えた大鼓役者・三栖屋又作
ここまで桜井八右衛門・白極言次・平岩親好と、江戸時代に入ってから伊達政宗が自らの家臣を能役者に仕立てていった実例を見て来た。
こればかり見ていると、まるで伊達政宗が自家で能役者を仕立てることにこだわりをもっていたかのように思えるが、決してそんなことはない。政宗は必要に応じて、既に活躍していた能役者を新たに召し抱えることもあった。
『大日本史料』慶長18年(1613)3月2日条が引用する「伊達政宗記録事跡考記」には、将軍徳川秀忠の伊達政宗邸御成の様子を伝えた同年3月28日付の今井宗薫宛の伊達政宗書状が収録されている。
今井宗薫は、徳川家康の六男・松平忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の婚約を仲介するなど、家康と政宗の連絡調整役をつとめた堺の茶人・商人である[1]高橋あけみ「今井宗薫と伊達政宗―宗薫家茶の湯書(佐藤家本)の意義―」(熊倉功夫編『茶人と茶の湯の研究』所収、思文閣出版、2003年)。。
その一部に以下のようにある。
自らの能大夫である桜井小次郎(後の八右衛門)を褒めちぎっているあたりも興味深い。しかし、ここでは、能公演を主催するにあたり、小次郎や白極言次など小姓・近習出身の能役者に加えて、20日ほど前に新たに京都から「みすやの又作」を扶持したことに着目したい。
この時の催能は『伊達治家記録』慶長18年3月29日に
とあり、江戸の伊達家上屋敷における将軍秀忠饗応の跡見祝儀[2]将軍を自邸に招いた後、老中などを饗応すること。として行われ、「世上ニ於テ伊達殿大能ト言習」わされた豪勢な催しだったという。
そのために新たに扶持された三栖屋又作は、京都で名声を得ていた大鼓役者であった。三栖屋又作[3]『伊達治家記録』には「三柄屋」とあるが、前述政宗書状「みすや」や『近代四座役者目録』の「三栖谷」の表記から「三栖屋」の誤りであろう。は『近代四座役者目録』に以下の通り記されている。
打振、男振ハ、親ヨリモ増シタリ。又兵衛子也。鼓ハ、拍子方モ親ヨリ劣リ、鼓モ悪シ。行年卅九才、親ヨリ前ニ卒ス。
最初に「同」とあるのは、先の項が又作の父「三栖谷又兵衛」で同姓であるためである。「出羽ト云」は白極言次や牛尾豊前同様、受領号かと思われ、政宗書状にある通り、世間で認められた名手であったらしい。『役者目録』には否定的な評言が並ぶが、必ずしもそのまま受け取ることができないことは、以前述べた通りである。
父・又兵衛の項に「本名字、福冨ト云」とあることから片桐登氏[4]片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)。は「三栖屋は同音の『御簾屋』の宛字で、家業を示していたことが分る」とされている。
なお、伊達政宗が、幕府の老中たちを饗応した能が「伊達殿大能」と語られたあたりに、筆者は伊達政宗による能楽の政治利用の姿勢を感じるのである。
脚注
^1 | 高橋あけみ「今井宗薫と伊達政宗―宗薫家茶の湯書(佐藤家本)の意義―」(熊倉功夫編『茶人と茶の湯の研究』所収、思文閣出版、2003年)。 |
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^2 | 将軍を自邸に招いた後、老中などを饗応すること。 |
^3 | 『伊達治家記録』には「三柄屋」とあるが、前述政宗書状「みすや」や『近代四座役者目録』の「三栖谷」の表記から「三栖屋」の誤りであろう。 |
^4 | 片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)。 |