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【仙台藩伊達家の能2】「政宗大夫」桜井八右衛門の登場

越前福井藩邸(藩主・松平忠昌)再現模型

政治や能楽の中心が豊臣家から徳川家に移りつつあった慶長14年(1609)、伊達政宗は小姓の桜井小次郎を、当時の能界の第一人者であった金春大夫安照の元へ入門させている。その経緯は『桜井八右衛門大坂御陣并勤功書』に詳しい。

それによると、小次郎の父・庄右衛門は屋代景頼の推挙で政宗に仕えた者であり、小次郎が庄右衛門の跡を継いで政宗に奥小姓として仕えたのは13歳の時だったという。

慶長十四年三月、我等十三之年、御奥小姓被召出、実父庄右衛門隠居被 仰付、跡式無御相違被下置、奥小姓相勤内、小謡なとうたひ申候ヲ被為聞、器用候間、稽古可仕由被遊 御意、金春大太夫被相頼、十四歳之年、御歩行衆高橋弥兵衛并御中間壱人被相附、南都被相登、其節我等名ヲハ小次郎ト申候、[1]仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編9』(2008年)所収資料99による。

奥小姓として勤める中で小謡を謡った、という記述には、当時の政宗周辺で、能や謡が盛んに行われていた様子が伺えて興味深い。桜井小次郎は翌年には早速、金春安照の本拠である奈良へ上った。

慶長18年(1613)には、早くも桜井小次郎の能役者としての活動が確認できる。下間少進の演能手控『能之留帳』には、慶長18年6月2日に藤堂高虎邸にて催された、将軍徳川秀忠饗応能の記録がある。それは以下のような番組であった。

《玉井》観世 《清経》左京 《二人静》今春・喜之介 《安宅》左京 《善知鳥》喜之介 《二人猩々》法印・左京 《船弁慶》小二郎 《邯鄲》今春 《藤門》[2]現行曲《藤戸》の別表記。法印 《融》今春 《養老》観世[3]法政大学能楽研究所編・片桐登校訂『能楽史料集成 下間少進集III』(わんや書店、1976年)所収「能之留帳」から形を改めて引用。

ここで《船弁慶》を演じている「小二郎」には「正宗大夫也」と注記されており、これが桜井小次郎である。

なお、この日、能を演じた他の役者について述べると、「観世」は観世大夫身愛、「今春」は金春八郎安照で、それぞれ大和猿楽を代表する座の棟梁。

「法印」は『能之留帳』筆者の下間少進仲孝で、前述の通り本願寺の坊官だが、安照の父・金春喜勝(岌蓮)から秘伝の伝授を受け、当時は退転していた秘曲《関寺小町》を豊臣秀次に命じられて復活上演するなど、能界を代表する演者の一人であった。

「左京」は花崎左京、「喜之介」は浅井喜之介で共に藤堂家の小姓だが、金春安照と下間少進について能の稽古を受けていた。金春安照門下ということでは桜井小次郎とは兄弟弟子にあたる。花崎左京の演能は慶長16年から、浅井喜之介は翌慶長17年から演能していることが確認できる[4]片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)ため、桜井小次郎より少し先輩のようである。

まだ年若い桜井小次郎が藤堂高虎邸での催能に出演しているのは「寛永初年には高虎と伊達政宗が能楽重用大名の双璧だった」[5]表章・天野文雄『岩波講座 能・狂言I 能楽の歴史』(岩波書店、1987年)328頁。と記されるように、高虎と小次郎の主君政宗が能楽を通じて親交があったことが背景にあるのであろう。また、藤堂家の能大夫たる左京や喜之介との縁も関係した可能性はあろう。

藤堂邸では翌6月3日にも将軍饗応後宴能が催されているが、そこでも桜井小次郎は《湯谷》と《現在鵺》を演じている。

さらにその10日後である6月13日には、伊達政宗が邸において能を催した。藤堂邸の催しと同じく『能之留帳』から番組を拾うと

《矢卓鴨》[6]現行曲《加茂》の別表記。今春 《忠度》小二郎 《三輪》喜之介 《大会》観世 《三井寺》小二郎 《船弁慶》法印 《野守》喜助 《天鼓》観世 《当广》[7]現行曲《当麻》の別表記。今春 《率都婆小町》[8]現行曲《卒都婆小町》の別表記。法印 《殺生石》新五郎 《東岸居士》梅若 《羅生門》小二郎

となり、桜井小次郎は全13曲中3番を演じ、また藤堂邸の催しとは逆に浅井喜之介(一度は「喜助」と書かれている)が客演で2番の能を演じている。当時小次郎は17歳とまだまだ若年ではあるが、着実に「正宗大夫」としての勤めを果たしていたようである。

出演者の「新五郎」は、金春安照の次男で後に分家・八左衛門家の初代となる金春安喜。梅若は元・丹波猿楽梅若座の大夫であったが、秀吉時代に観世座にツレ方として組み込まれた梅若玄祥である。

なお、桜井小次郎自身は単なる能役者ではなく、あくまで本分は政宗に仕える武士のつもりだったようで、翌年の大阪冬の陣に、政宗につけられた徒士・高橋弥兵衛や中間とともに参陣しようとした。しかし「政宗公、以之外御呵被遊候而、南都被相返ル」(『桜井八右衛門大坂御陣并勤功書』)と政宗に叱られて奈良へ戻ったらしい。もっとも翌年の大坂夏の陣では片倉小十郎重長の軍に属して戦い、政宗から指小旗と幕を与えられている。

桜井小次郎は元和4年(1618)に加増を受け、三十貫文扶持となった際に通称を八右衛門と改める。以後、八右衛門は桜井家当主の通称となっている。[9]なお初世桜井八右衛門の実名について、『宮城県史14 文学芸能』(1958年)には昭和26年の八右衛門の墓発見の経緯を記し、「右外側に『俗名 桜井八右衛門安澄』と刻んである(図版十四)。これによつて不明であった享年・歿年月日・法号が判明し、また従来あらゆる文献に安證とある諱は誤りで、安澄が正しいことも明かになつた」と記している。その墓の写真も図版で収録されているが、戒名を記した正面のもので、八右衛門の実名の確認ができるものではない。一方で『仙台市史 資料編9』では、「『安澄』とすることが多いが、『伊達世臣家譜』では『安證(証の旧字)』と記す。また本巻に収録した勤功書(九八)に見える文字のくずしも『澄』よりは『證』に近いことから、本巻では『安証』と表記した」とある。残念ながら、筆者が確認できたのは活字となった資料のみであり、判断しかねるため、「小次郎」「八右衛門」と通称のみを記した。

脚注

脚注
^1仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編9』(2008年)所収資料99による。
^2現行曲《藤戸》の別表記。
^3法政大学能楽研究所編・片桐登校訂『能楽史料集成 下間少進集III』(わんや書店、1976年)所収「能之留帳」から形を改めて引用。
^4片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)
^5表章・天野文雄『岩波講座 能・狂言I 能楽の歴史』(岩波書店、1987年)328頁。
^6現行曲《加茂》の別表記。
^7現行曲《当麻》の別表記。
^8現行曲《卒都婆小町》の別表記。
^9なお初世桜井八右衛門の実名について、『宮城県史14 文学芸能』(1958年)には昭和26年の八右衛門の墓発見の経緯を記し、「右外側に『俗名 桜井八右衛門安澄』と刻んである(図版十四)。これによつて不明であった享年・歿年月日・法号が判明し、また従来あらゆる文献に安證とある諱は誤りで、安澄が正しいことも明かになつた」と記している。その墓の写真も図版で収録されているが、戒名を記した正面のもので、八右衛門の実名の確認ができるものではない。一方で『仙台市史 資料編9』では、「『安澄』とすることが多いが、『伊達世臣家譜』では『安證(証の旧字)』と記す。また本巻に収録した勤功書(九八)に見える文字のくずしも『澄』よりは『證』に近いことから、本巻では『安証』と表記した」とある。残念ながら、筆者が確認できたのは活字となった資料のみであり、判断しかねるため、「小次郎」「八右衛門」と通称のみを記した。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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