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【仙台藩伊達家の能15】伊達成実邸での演能

前回は、伊達政宗とその重臣で従兄弟であった伊達成実が、60歳を越え、老武者の奮戦を描いた《実盛》の能に感泣した記録を紹介した。

伊達成実が能と関わるもう一つのエピソードが存在する。こちらは『伊達治家記録』寛永11年(1634)2月23日の条に記されている、成実が政宗を邸に招き、茶や能で饗応した記録である。

寅刻、伊達安房殿成実宅へ御出、数寄屋ニ於テ御茶饗シ奉ラル
(中略)
巳刻、表へ御出、御能仰付ラル、竹生島・兼平・井筒・鵺・道成寺・小袖曽我・杜若・邯鄲・是界、以上九番アリ、安房殿ヨリ大夫ニ、時服二重充惣役者ニ一万匹、舞台ニ於テ賜ヘリ

この日の詳細は『政宗記』『木村宇右衛門覚書』『政宗公名語集』などに記述がある。以下、『名語集』42段に従って紹介するが、気になる方は文末にを『名語集』原文を掲載するので、確認いただければ幸いである。

伊達成実邸での政宗饗応能当日の流れ

この日の能は、寛永5年(1628)に政宗が仙台城から若林城へ移ったのを機に、成実にも若林城下の屋敷が割り当てられた。この日はようやく完成した成実邸の、政宗に対して披露の日であった。

饗応の最初、まず成実は政宗を数寄屋に案内し、献茶を行なった。饗応が献茶から始まるのは、以前に触れた政宗の家光饗応も同様であり、当時の饗応の例であったのだろう。

その後、政宗は衣装を長袴に改めて能に対している。この日、能は計9番演じられたが、天井から釣った鐘の中に跳び込む演技を含む《道成寺》もあり、伊達家一門第二席の新邸披露にふさわしい盛儀であった。成実が能役者たちに与えた祝儀もかなり豪華である。

能の演者については「兵部大輔」、つまり政宗の末の男子だった千勝丸[1]後に伊達騒動の中心人物の一人として、名前が知られる伊達兵部宗勝。当時14歳。以外は全く言及されていない。しかし、『木村宇右衛門覚書』の付札[2]奥山大炊常辰が『木村宇右衛門覚書』調査した際に付けたもの。に「舞台ニて血こほれ申候儀ハ、桜井八右衛門直咄承候事」とあり、その場に桜井八右衛門がいたことが分かる。そこから《道成寺》など、主に能を演じたのは桜井八右衛門をはじめとする仙台藩お抱えの能役者たちで、千勝丸は主客たる政宗を喜ばせるための特別出演といった形であったと推測される。

なお『名語集』では千勝丸が演じたのは《鵺》としか書かれないが、『覚書』によると、他に《小袖曽我》も演じていたらしい。

この記事の中心は、宗碧[3]『政宗記』では「宗檗」表記。という相伴衆の僧侶が、酔いのあまり千勝丸の能を節操なく褒めちぎった結果、政宗が怒り、鞘がらみの刀で宗碧を打ちすえ流血に至った事態と、それに対する政宗の言葉である。政宗の意識が見える興味深い記事ではあるものの、能についての言及はあまり多くはない。

そして、その夜に成実屋敷から出火[4]出火元について成実自身による『政宗記』では「上台所と中台所の間へ、濡縁の下の芥どもへ、煙草の火こそ落ちたるらんした。『木村宇右衛門覚書』や『政宗公名語集』では水をよくかけていた置囲炉裏が出火元とする。「家屋残ラズ焼亡シ、肴町一町裏向類火ス」(『伊達治家記録』)という大火事になったため、各記録の筆者たちの興味もそちらへ注がれている。

流血事件と成実屋敷の焼亡は、この記録全体に暗い影を落としているが、能楽には直接関係しないため、ここでは深く触れない。[5]成実屋敷の焼亡については、武水しぎの氏のサイト『成実三昧』「伊達成実の謎/伊達安房屋敷の火災と肴町」に詳細がまとめられている。

ここで興味深いのは「けふの能見物とて、庭上に数百人とり入り候」とあることである。この成実新邸での催能は、政宗を主客としつつも庭を開放しており、多くの一般客がいたらしい。さらに「又けふの芝居の中に、一国の者、一人づつはあるべし」、見物客の中には伊達領以外から来た者もいたらしい。成実による大々的な能興行として、仙台城下その他に布告されていた可能性もあり得よう。

また「いづれも御親類衆・大身・少身、みなみな長袴なり。御主様も御長袴めさせられ」とあることから、政宗以下、全員が長袴をはいていたことが分かるが、後の政宗の言葉「わが国なれば、袴なしにも楽に見物せまく候へども」という言葉から、この日の長袴が公の能の時の礼儀としての正装であることが分かる。

政宗が常に能を見る際に長袴を着用していたわけではないらしい。私的な能の催しの際には、純粋な娯楽として、もっと気楽に楽しんでいたようである。

なお、この日の演能は《道成寺》が演じられたことから、成実邸の能舞台は屋根も備えた本格的なものであったことが分かる。しかしながら、この披露当日に焼亡してしまったこともあり、残念ながら他に成実邸の能舞台について触れた記録は見当たらない。

成実が能に対してどのような態度であったのか、知る手がかりは少ない。この日の催能も、能を愛好する政宗に合わせたもの、もしくは当時の饗応の定型としての催能だったとも考えられ、成実が積極的に能に触れていたのかは、これだけでは判断できない。

感泣のエピソードから能に好意的であっただろうとは推測できる程度である。

『政宗公名語集』42段より

一、或時、伊達安房守殿(伊達成実)にて、ことごとく作事出来し、日がらを以て、貞山様(伊達政宗)を御申入られ、朝は御数寄屋、さてそれより御書院に於て、いづれも御親類衆・大身・少身、みなみな長袴なり。

御主様も御長袴めさせられ、萬事御作法ただしく見えさせられ、御能終日、御見物あそばされ候。其の日、兵部大輔殿(政宗末子・宗勝)、鵺をなされ候。惣別、御はなし御挨拶のためにとて、御相伴衆をも、御座敷の縁側にさしおかれ候。

御相伴衆のうち、(小野)宗碧とて、京方のものにて御座候を、別して御取立て、知行百貫文が、所役なしに下され、年もより申したるものなれば、いよいよ不便におぼしめし候事、ななめならず。その日も宗碧、御相伴仕り、御書院にて御親類衆の中につらなり、御縁側御座近う、さしおかれ候。

兵部大輔殿、御能なされ候に、諸人感を催しける。まことにいたいけしたる御事にて、音曲、拍子にかなひ、御かたち優に見え給へば、御前にても、御機嫌一入御よく見え、見物の上下、感涙肝に銘じける。

折ふし、かの宗碧、感にたへず、酔興の心やきざしけん、また御機嫌に入らんとや存じけん、御座近く躍り出で、「兵部大輔様の御能、さてもさても」と、声をあげ、頭をさすし、立ちあがり立ちあがり、ものの音もきこえぬほど、浮気にたちふるまひ申す。

貞山様にても、憎しとおぼしめし候へども、御座敷の興に御もてなし、それぞれにあひしらひ、さしおかれし所に、たちまち御罰やあたりけん、なほしづまらで、御膝近くねぢより、「やあ殿よ殿よ、あれよく見たまへ。いかなる夷鬼神なりとも、いかでか泣かであるべき」とて、声をあげて泣き叫ぶときに、俄に御気色変り、御側なる御腰の物、抜きうちに、しとど討たせらるる。されども、命をば不便とや、おぼしめしけん、薄手おふせて、御腰の物を引かせらるる。件の宗碧、黒衣たちまち赤く染めかへる。

さて、御座敷を立たせられ、わきの座敷へ御入なされ、奉行衆を以て、御亭主安房守殿はじめ、各へ仰せ分けらるるは、

「只今の様子、みなみな慮外とおぼしめし候はんこと、痛み入り、恥ぢ入り申し候。御亭主へは、今日、いかようの事ありとも、腹立つこと、ゆめゆめあらじと、かねてより思ひ候処、不慮の事、是非におよばず。さりながら、よく物を分別して、各も御覧候ヘ。この宗碧事は、別して取立てのものなれば、いかなる事ありとも、免じて朝夕不便を加へ、今日まで候ひしぞかし。

その上、今日の事は、内々のことなどならば、いかほど申すとも、結句、時の興とあひしおき申すべきが、けふの能見物とて、庭上に数百人とり入り候。わが国なれば、袴なしにも楽に見物せまく候へども、かやうに貴賤行儀正しくとり行ふ事も、われを重んずる故ならずや。国のものどもをも恥ぢて、われさへ乱りの無きやうにと、心づかひは為いでかなはぬ身なり。又けふの芝居の中に、一国の者、一人づつはあるべし。

かやうの儀、そのままにしておくならば、国々へ帰りて、いつぞや奥州に下りし時、政宗の親類、安房守といふ人の所にて能ありしに、万事行儀正しきやうにふるまひけれども、側に年比の相伴坊主ありけるが、子息兵部大輔殿能のとき、殿や殿やあの子供の能を見て、泣かぬはあまりなりなどと、いかにも心安げにいひけれども、その通りにてありける。

人は聞いたると、見たるとは、各別ちがふものよ。官も中納言ぞかし。似はぬなどと、とりどりに言はれんは、くちをしき次第なり。只今の腹立は、ここを以ての儀なり。亭主へ何もさはる事なし。さあれば、わが機嫌のあしき事もあるまじ。おのおのも、心をほどこし、気遣ひなく、能をも御らん候へ」

と、御使を以て、何れもへ仰せ分けられ候ゆゑ、いづれもありがたき御事、御諚尤もと感じ申され、其の後、御本座へ出御あそばされ、いよいよ御機嫌よく、終日御能御らんじ、夜に入りて御帰り遊ばされ候が…

以上、小倉博編・高橋富雄新訂『伊達政宗言行録―政宗公名語集』(宝文堂、1987年)によるが、読みやすさを考えて、私に改行などを行った。また、この後も文章は続くが、能に関わりがないため省略する。

脚注   [ + ]

1. 後に伊達騒動の中心人物の一人として、名前が知られる伊達兵部宗勝。当時14歳。
2. 奥山大炊常辰が『木村宇右衛門覚書』調査した際に付けたもの。
3. 『政宗記』では「宗檗」表記。
4. 出火元について成実自身による『政宗記』では「上台所と中台所の間へ、濡縁の下の芥どもへ、煙草の火こそ落ちたるらん
5. 成実屋敷の焼亡については、武水しぎの氏のサイト『成実三昧』「伊達成実の謎/伊達安房屋敷の火災と肴町」に詳細がまとめられている。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」会員。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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