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【戦国伊達家の能4】母親の前で政宗が弟・小次郎への太鼓指導も 米沢時代の伊達家中と能

前回、若くして伊達家の家督を継いだ伊達政宗の周辺では、多くの上方の能役者による演能が行われていたことに触れた。今回は、政宗自らも能の芸をたしなみ、太鼓や謡の腕を披露していたことに触れる。

まず注目されるのが『伊達治家記録』天正15年(1587年)1月15日の記録である。

晩、竺丸殿誘引シ玉ヒテ 御東へ御出、太鼓教へ玉フ。竺丸殿ハ御母弟ナリ。後元服シテ小次郎殿ト称ス。

「竺丸」は後半の文にある通り、元服後に小次郎と名乗った政宗の同母弟。「御東」は『伊達治家記録』天正15年1月1日条に「御母公ノ御座所御屋形ノ東ニアリ。因テ御東ト称シ奉ル」とある通り、政宗と竺丸兄弟の母・義姫のこと。

つまりはこの日、政宗は母・義姫のもとに弟・竺丸を誘って行き、そこで太鼓を教えたのである。太鼓を通じての母子兄弟の交わりの記録、といって良いだろう。前日が乱舞始であるので、その関係かと推測される。また当時、数え21歳であった政宗が弟へ指導を行えるだけの太鼓の技量を備えていたことも示している。

『伊達天正日記』によると、翌天正16年(1588)1月14日の乱舞始で政宗は《老松》と《是界》の太鼓をつとめている[1]『伊達天正日記』本文は前々稿に引用した。以後、政宗が太鼓を打っている記録は枚挙に暇がないほどであるため、一々は触れない。

また別に『伊達治家記録』天正15年4月3日条には竜宝寺での演能の後、「深見父子ヲ召出サレ、御拍子アリ、 公当麻ヲ謳ヒ玉フ」とあり、深見父子を呼び出しての演能の場で、政宗は《当麻》の謡を謡った。政宗が太鼓以外の能芸を披露している、数少ない記録である。なお「御拍子」とは、現在の能楽の演奏形式でいう舞囃子または居囃子のような部分演奏の形だろう。

同年6月1日にも、増川可遊斎[2]増川可遊斎は越後の上杉景勝からの使いで、5月24日から6月2日にかけて伊達家に滞在した。陣氏よりの御教示による。出典は『片倉代々記』。を饗応する「御拍子」にて政宗は《鵜羽》を謡っている。

先に述べた天正16年の乱舞始では政宗の他に、《呉服》の太鼓を伊達家臣の横山源兵衛[3]坂田啓編『私本仙台藩士事典(増補版)』(2001年)にて確認。がつとめ、その鼓は佐竹助左衛門がつとめていた。

その7日後、1月21日の片倉景綱宅での演能では、政宗が太鼓を打った他に、伊達家臣の小梁川泥播斎(盛宗)が大鼓[4]『仙台藩史料大成 伊達治家記録一』同日条では「太鼓」とあるが、政宗と同じ曲をつとめたらしい記述のされ方や、『伊達天正日記』同日条に「大つゝミ」とあることから、「大鼓」の誤りであろう。を共につとめている旨が記されている。

天正17年(1589)5月23日には政宗は亘理において亘理重宗の饗応を受けたが、その場では片倉以休斎(景親)[5]片倉景綱の伯父。「意休斎」表記が多いが、『伊達治家記録』此条の記載に従って記す。が《融》を舞っている。政宗だけではなく家中入り交じって能を自ら演じて楽しんでいた様子が窺える。

また、政宗が最大版図を得ることになった摺上原の戦いの、実に10日前(天正17年5月25日)にも、伊具郡金山において政宗が太鼓を3番打ち、善五郎なる者が《高砂》を舞っている記録がある。合戦に忙しいさなかにも政宗にとって、能は欠かせないものだったらしい。

それは能が伊達家中における単なる楽しみではなく、その室町幕府における式楽としての性格から、伊達家においてもまた欠くべからざるものであったことを示している。

実際、乱舞の記録は葛西・田村・岩城などの使者を饗応する際のものが多い。天正16年7月15日に田村家の一門を饗応しての「御拍子」は、同年2月から蘆名・相馬両家と田村領を巡って続いていた郡山合戦が、停戦となったことを受けてのものであろう。

またその3日後の同月18日には石川昭光を饗応して「童坊ニ仕舞仰付ラル」とあるが、これも郡山合戦停戦の調停を行った昭光への礼としての饗応かと思われる。

摺上原の戦いの後、入城した会津黒川城でも政宗は盛んに能を行っているが、天正18年(1950)3月15日に亘理元安斎(元宗)[6]先に述べた亘理重宗の父、伊達晴宗の弟。と伊達成実を饗応した際の「御拍子并ニ躍舞」[7]躍舞は能以外の踊りのことらしい。以来、しばらく伊達家における能の記録は姿を消す。

この年の6月、政宗は小田原へ参陣を果たし、関白・豊臣秀吉に臣従。秀吉政権の惣無事令体制に組み込まれるのである。

脚注   [ + ]

1. 『伊達天正日記』本文は前々稿に引用した
2. 増川可遊斎は越後の上杉景勝からの使いで、5月24日から6月2日にかけて伊達家に滞在した。陣氏よりの御教示による。出典は『片倉代々記』。
3. 坂田啓編『私本仙台藩士事典(増補版)』(2001年)にて確認。
4. 『仙台藩史料大成 伊達治家記録一』同日条では「太鼓」とあるが、政宗と同じ曲をつとめたらしい記述のされ方や、『伊達天正日記』同日条に「大つゝミ」とあることから、「大鼓」の誤りであろう。
5. 片倉景綱の伯父。「意休斎」表記が多いが、『伊達治家記録』此条の記載に従って記す。
6. 先に述べた亘理重宗の父、伊達晴宗の弟。
7. 躍舞は能以外の踊りのことらしい。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」会員。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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