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【仙台藩伊達家の能16】伊達成実が使った?謡本

喜多七大夫節付 伊達安房守謡本

数少ない成実と能楽の具体的な関係を物語る資料が、北海道伊達市開拓記念館[1]なお、伊達市開拓記念館平成29年11月末をもって閉館。「だて歴史文化ミュージアム」として平成31年4月3日リニューアルオープンする予定。に現存する。

北海道伊達市は明治3年(1870)、成実の後裔である亘理伊達家の当主・伊達邦成が家臣を引き連れて移住・開拓した土地である。その開拓記念館には邦成が亘理から携えてきた能楽資料も所蔵されている。各種の謡本や仕舞付、仙台藩五代藩主・伊達吉村の周辺で編纂された『真徳鏡』を始めとする能楽伝書[2]北海道伊達市教育委員会編『伊達市開拓記念館所蔵伊達家文庫目録』1980年による。但しこの目録は誤読と思われる疑問点が多い。例えば成実謡本について「金春七郎泰藤の奥書あり。宋女・三井寺以下38曲」とするが、「泰藤」は「秦安勝」、「宋女」は「采女」の誤りであろう。「大蔵流」の伝書も狂言大蔵流とするが、仙台藩にのみ存在したシテ方の金春大蔵流(略して大蔵流とも呼ばれる)である可能性が高い。、さらに能装束の「濃茶地丸紋散らし縫箔」[3]2005年から翌年にかけて福山和子氏(北星学園大学短期大学部名誉教授、染色文化財保存修復・服飾文化史専門)によって修復が行われた。その際のインタビューが伊達市噴火湾文化研究所編『Newsletter噴火湾文化』創刊号(2006年)に収録されている。など、その多くは成実以後の亘理伊達家歴代が収集したものであるが、その中に成実が所持していたらしい謡本が10冊存在するのである。

その謡本は表章氏が著書『喜多流の成立と展開』(平凡社、1994年)450頁から462頁において紹介されている。以下はほぼ全て、表氏の記述に拠っていることを先にことわっておく。なお、この謡本は札幌大学高橋研究室『史料と研究』22号(1991年)以降、「影印 伊達市開拓記念館蔵金春流謡本」の名前で影印が紹介されており、筆者はこれで確認した。

伊達市開拓記念館に所蔵されている謡本は二番綴のやや大きめの半紙本(縦230、横171ミリ程度)で全10冊。詞本文については全冊一筆と認められている。 内《采女》《三井寺》1冊のみは「竹田金春七郎/秦安勝(花押)」の署名本。《難波》《邯鄲》・《松風》《千手重衡》・《呉服》《賀茂》・《天鼓》《遊行柳》の4冊には小字で「竹田七郎」のみ。また節の「しほる」の書体の差異などから、《采女》《三井寺》と他の4冊では節付が別人によると推測されるらしい。以上5冊には年記や宛名はない。

残りの5冊(《源氏供養》《杜若》・《百万》《柏崎》・《朝長》《清経》・《短冊忠度》《八嶋》・《三輪》《竜田》)は「依御所望節付申候」「喜多七大夫/長能(花押)」「伊達安房守様参」の奥書があり、それぞれ3月3日から7月10日までの日付が記されている。

これらの本の内、古七大夫(初世喜多七大夫)の節付が記された本について、

  • 七大夫が「喜多」姓を使用していたのが寛永初年から寛永中期以前と推測されること(寛永以前は「金剛」姓、または姓なしで「七大夫」。寛永後期以後はもっぱら「北」を使用)。
  • 古七大夫の活動期における「伊達安房」は成実か、もしくはその養子として跡を継いだ宗実[4]伊達政宗の九男。幼名は喝食丸。のどちらかであるが、宗実が安房を名乗るのを『仙台人名大辞典』から承応元年3月19日と判断。一方で、古七大夫が承応2年正月に没しているため、3月前半の日付を含む謡本に節付を所望した「安房」は宗実ではあり得ない。

以上2点から、表氏は謡本奥書の「伊達安房守」は成実と考えるのが妥当と判断している。元和9年以降、頻繁に伊達家に出入りしていた古七大夫に、伊達家の一門・重臣である成実が謡本の節付を所望することは十分あり得るであろう。以下、この謡本を仮に成実謡本と呼ぶことにする。

また、一群となっている金春安勝(表氏は安照の孫、重勝の初名と推定[5]表章「金春七郎安勝のこと」(『能楽史親考(一)』所収、わんや書店、1979年)。)の活動時期からも「寛永初年から寛永九年以前に書かれたものと推測される」と結論づけている。

同筆・同装の謡本の存在

なお、表章氏は『喜多流の成立と展開』において、伊達市開拓記念館蔵の成実謡本と同筆・同装の本が、法政大学能楽研究所鴻山文庫に蔵されていることも指摘している。『鴻山文庫蔵能楽資料解題 上』(法政大学能楽研究所編、1990年)の整理番号で示すと、

  • 二31「大蔵大夫氏紀節付本」《高砂》《定家》/《野宮》《葵上》2冊、「依御所望節付申候」「大蔵大夫/秦氏紀(花押)」と奥書。なお大蔵氏紀は金春安照の三男、通称・庄右衛門。古くから金春と深い関わりを持つ大蔵大夫の名跡を再興した人物である。[6]大蔵大夫の名跡再興には、大蔵家の出であった大久保石見守長安の尽力があった。形式的なものながら、氏紀は長安の養子となったらしい。表きよし「大蔵太夫之事」(『能楽研究』8所収、法政大学能楽研究所、1983年)に詳しい。
  • 二32「竹田金春七郎安勝節付本」《玉蔓》《融》1冊、「竹田金春七郎/秦安勝(花押)」と奥書。
  • 二33「寛永頃筆二番綴本」《軒端梅》《湯谷》/《現在鵺》《熊坂》/《錦木》《船橋》3冊、奥書なし。

以上、計6冊である。特異な書癖も共通し、また曲目にも重複がないため、開拓記念館蔵謡本十冊と鴻山文庫の6冊は元来一群であったことは疑いもない。原形はもっと多数冊であった可能性もある。

鴻山文庫蔵の奥書に署名のない3冊(二33)も、開拓記念館蔵の小字「竹田七郎」本と確実に同筆による節付とのことで、金春安勝本人ではないにしろ、周辺の金春家の主だった人物によるものと想像される。

以上から、これら計16冊の謡本は、5冊のみ古七大夫による節付本を含むものの、全体としては金春流の謡本といえる。表氏はさらに内容の検討からも、金春流の謡本であったと結論付けている。そのため、古七大夫が節付した5冊についても「金春流謡本たる伊達本の一部に古七大夫が節付を施したと解するのが、伊達本全体に関する妥当な把握と思う」と述べている。

これら一群の16冊の謡本のうち、「伊達安房守」の宛名が記されているのは、古七大夫節付の5冊のみであるが、別の5冊も亘理伊達家に伝来したことから、全体が元は伊達成実所蔵の謡本であったと考えて良いだろう。成実謡本の本文が金春流であることは、先に述べた通り、政宗時代における仙台藩の能楽は、桜井八右衛門が代表する金春流によって占められていたことから、極めて自然な流れであった。表氏は「謡本調製を桜井八右衛門が斡旋したことも十分想像できる」と述べている。節付者が複数存在するにも関わらず、全体の本文が同筆であることは、まず成実側で謡本が用意され、それぞれの節付者に依頼がなされたことを示す。

以上の内容を踏まえた上で、この成実謡本の問題である「金春流の謡本に喜多流の節付が行われている」ことについて、表氏は古七大夫の謡本節付の態度の考察へと移り、「修正もせずに節付を加えるというのは、『神経質ではない』どころか無神経に近いかのように、節付者の本文修正の例を多く見て来た目には映じる」と述べている。

謡本への伊達成実の態度

成実を主題とするこの記事では、成実の謡本に対する態度を考えてみたい。

当時、謡の諸流間の詞章の差異が、どれほど意識されていたのかはよく分からない。しかし、表氏の想像される通り、この成実謡本の調製に桜井八右衛門が関わっていた場合、金春大夫家の弟子であった八右衛門が、まず依頼するのは師匠筋にあたる金春安勝や、その別家である大蔵氏紀であっただろう。

また八右衛門は自ら舞台に立つ能役者として、金春流と喜多流の流儀差を意識しなかったはずはないと思われる。八右衛門と古七大夫は伊達家の催しで競演することも多く、舞台のたびにその差異も実感していたであろう。それだけに八右衛門が積極的に金春流の本文を持つ謡本の節付を古七大夫へ依頼したとは考えにくい。

そこから節付を古七大夫へ希望したのは、謡本の依頼主であった成実の意向であったのではないか、と考えたい。古七大夫は当時の能界の第一人者であった。その節付謡本を所望するのは素人としては自然な感情であっただろう。成実が能に積極的であったことを示す記録は存在しないが、政宗周辺の能の盛んな様子から、成実にとっても能は幼少の頃から身近な存在であったことは間違いないだろうし、好意も感じていたであろう。

表氏は、本文と節付けが異なる謡本の例として、車屋謡本(金春流)の筆者である鳥飼道晣(屋号・車屋)が、観世流の本文に金春流の節付を行った例(吉川家旧蔵謡本)を紹介している。道晣は金春喜勝の右筆的役割をつとめる中で謡本の節付に熟達し、後に豊臣秀次に仕え、秀次が公家・禅僧らを集めて編纂を命じた史上初の謡曲注釈書『謡抄』にも参加した人物である。[7]『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)「鳥養道晣」による。2019年1月5日閲覧。吉川家旧蔵謡本で、本文と節付の流儀が異なる例は稀曲であり、金春流による本文が手に入らなかったための便法かと推測されるが、ここで問題としたいのは、大夫と近しく、多くの謡本を節付けした道晣ですら他流儀の本文を使用したことに対する意識である。伊達成実の能や謡に対する意識が、道晣以上に高かったとは考えにくい。

推測ではあるが、成実は金春流の本文の謡本に古七大夫の節付を所望することについて、違和感を覚えなかったのではないだろうか。特に喜多流と金春流は共に「下掛り」と称され、謡の詞章や曲節に共通点が多いため[8]金春流と金剛流は室町時代以来、芸系が近く、謡の詞章や曲節にも共通点が多い。さらに喜多流は古七大夫の経歴通り、金剛流からの分かれたものである。この三流をあわせて「下掛」と称し、観世流・宝生流の「上掛」と区別されている。、差異は存在するものの、多少嗜みがあっても把握していたかどうかには疑問がある場合もあろう。成実は能や謡にそれなりに親しんではいたものの、その愛好は武将としての平均的な愛好に留まっていたことを示すのが、古七大夫節付本の存在であろう。

なお、謡本は稽古用の譜本である。謡の稽古を受けることが前提かと思われるが、成実はこれら成実謡本を調製する際に、誰かから謡の稽古を受けたのだろうか。それとも若いころから謡を稽古していたことで、この時は新たに稽古を受けることはしなかったのだろうか。成実謡本の節付者が4人もいたことから、それぞれの節付者に稽古を受けて回ったとは考えにくいが、謡本の節付と稽古の関わりは、筆者はあまりに無知である。今後より調べていきたいと思う。

脚注   [ + ]

1. なお、伊達市開拓記念館平成29年11月末をもって閉館。「だて歴史文化ミュージアム」として平成31年4月3日リニューアルオープンする予定。
2. 北海道伊達市教育委員会編『伊達市開拓記念館所蔵伊達家文庫目録』1980年による。但しこの目録は誤読と思われる疑問点が多い。例えば成実謡本について「金春七郎泰藤の奥書あり。宋女・三井寺以下38曲」とするが、「泰藤」は「秦安勝」、「宋女」は「采女」の誤りであろう。「大蔵流」の伝書も狂言大蔵流とするが、仙台藩にのみ存在したシテ方の金春大蔵流(略して大蔵流とも呼ばれる)である可能性が高い。
3. 2005年から翌年にかけて福山和子氏(北星学園大学短期大学部名誉教授、染色文化財保存修復・服飾文化史専門)によって修復が行われた。その際のインタビューが伊達市噴火湾文化研究所編『Newsletter噴火湾文化』創刊号(2006年)に収録されている。
4. 伊達政宗の九男。幼名は喝食丸。
5. 表章「金春七郎安勝のこと」(『能楽史親考(一)』所収、わんや書店、1979年)。
6. 大蔵大夫の名跡再興には、大蔵家の出であった大久保石見守長安の尽力があった。形式的なものながら、氏紀は長安の養子となったらしい。表きよし「大蔵太夫之事」(『能楽研究』8所収、法政大学能楽研究所、1983年)に詳しい。
7. 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)「鳥養道晣」による。2019年1月5日閲覧。
8. 金春流と金剛流は室町時代以来、芸系が近く、謡の詞章や曲節にも共通点が多い。さらに喜多流は古七大夫の経歴通り、金剛流からの分かれたものである。この三流をあわせて「下掛」と称し、観世流・宝生流の「上掛」と区別されている。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」会員。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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