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【仙台藩伊達家の能7】能《兼平》から政宗が名付けた香木「柴舟」

寛永3年(1626)、伊達政宗は手に入れた香木に、能《兼平》の一節から新たに「柴舟」という銘をつけた。同年12月1日付の「松平伊達越前守(伊達忠宗)宛書状」に、政宗は以下のように記している。

其元に而約束申候伽羅、遣申候、様之ハ稀にて候、心よハく、むさと人に遣間敷候、名者柴舟と付申候、かね平之うたいに、うきを身に積柴舟のかぬさきゟこかるらん、たかぬさきより匂と云心にて候、よびこゑハくなく候へども、恐惶謹言、
  極月寛永三年朔日 政宗(花押)
   松越前守伊達忠宗殿[1]『仙台市史 資料編12 伊達政宗文書3』(2005年)収録2829による。

政宗が手に入れた香木の一部を、嫡子・伊達忠宗に送った際の書状である。ここに引いた以外の部分も存在するが、ここでは省略する。

大まかな文意を述べると、「以前から約束していた伽羅の香木を送る。これほどの香木は珍しいので、みだりに人に分け与えてはならぬ」と忠宗を戒めた後、能《兼平》のシテ最初の一句「世の業の、憂きを身に積む柴舟や、焚かぬ前よりこがるらん」[2]伊藤正義校注『新潮古典文学集成 謡曲集 上』(新潮社、1983年)による。底本は法政大学能楽研究所鴻山文庫蔵・光悦謡本(特製本)で、慶長から元和年間に刊行された古活字本である。なお現行観世流も同文。を踏まえ、焚く前から香るとの意味を込めて「柴舟」と名付けたと記す。その後に「あまり音の響きが良くないか」と付け足しているのは、謙遜であろうか。照れかもしれない。

能の詞章は、和漢の古典を踏まえたものが多いが、この《兼平》の謡には各注釈を確認しても特定の原典は指摘されておらず、どうやら能作者による作文のようである。

一木四銘の逸話

この香木「柴舟」は、同じ香木が分けられて細川家のほか天皇家や前田家、小堀遠州などに伝来し、それぞれ「白菊」「初音」「藤袴(蕑)」と別々の銘で呼ばれていたという逸話もある。一つの木に四つの銘があることから、「一木四銘」と称された。

入手の経緯について、『仙台市史 通史編3 近世1』(2001年)特論1「伊達政宗の教養」では、『伊達治家記録』の記述に従い、細川忠利から購入したとする。しかし、京都町奉行所与力だった神沢貞幹(杜口)の手による随筆『翁草』(江戸時代後期成立)では、伊達家と細川家が争ったと記すほか、伊達家・細川家・前田家が共同で購入し分けたという異説も存在する。

銘についても『翁草』では細川家のものを「初音」とするが、「白菊」とする異説もある。入手の経緯や銘の各説の検討も非常に興味深いが、能から離れるため、これ以上は触れない。ともかくも異説が伝わるほどに、当時から世の関心を集めた香木であったことは確かである。

『翁草』には、それぞれの銘の由来について以下のように記されている。

此興津[3]香木を手に入れた細川家臣・興津弥五右衛門の名前。が調へ来りし伽羅は、類ゐなき名香にて、三斎特に秘蔵せられ、銘を初音と付らる。其の心は、

 きく度に珍らしければ郭公
  いつも初音の心地こそすれ

此古歌によれり。寛永三年丙寅九月六日、二条に錦城へ主上(後水尾天皇)行幸の事有り、此の時肥後少将忠利(三斎の嫡子)へ、彼名香を御所望に仍り、則是を献ぜらる。主上叡感有て、白菊と名付させ給ふ。

 たぐひありと誰かはいはん末匂ふ
  秋より後のしら菊の花[4]『仙台市史 通史編3 近世1』(2001年)特論1「伊達政宗の教養」では、この和歌を、藤原清輔編『和歌一字抄』に例歌として出る源行宗の和歌とする。

此の心とぞ。又仙台中納言正宗卿は、役人梢を調へ来りしを大に残念なられしかども、流石名香の事なれば、常に是を賞して、柴船と銘せらる。

 世の中の憂を身につむ柴船や
  たかぬさきよりこがれ行らん

此歌の心成べし。其の名はとりどりながら、皆心面自し。斯る所以を知らぬ人は、白菊初音柴船は、唯同じ香とのみ覚候。或は小堀遠州の所持のよし色々異説を云人有り、皆誤なり。[5]『翁草』巻之六「当代奇覧拔萃」。引用は『日本随筆大成19』吉川弘文館、1978年による。なお、この『翁草』の説話を元に森鴎外が小説『興津弥五右衛門の遺書』を書いている。

残念ながら、ここには「藤袴」の銘が現れず、「一木三銘」と呼ぶべき状態になっている。「白菊」の銘の由来となった和歌の出典は分からないが、細川家の「初音」の元歌は『金葉和歌集』にある僧・永縁の和歌である。永禄は、この和歌によって「初音僧正」という通称で呼ばれたという逸話があるほどに、よく知られた和歌であった。

文芸において最高の権威をもつ、勅撰和歌集の和歌を元に名付けられた細川家での銘「初音」に対して、政宗が付けた銘「柴舟」は和歌調とはいえ謡に由来するものである。もしかしたら、そのあたりの差が「よびこゑハよくなく」と謙遜した理由かもしれない。

政宗が手に入れた「柴舟」は、先に引いた書状では、嫡子・忠宗には「みだりに人に分け与えてはならぬ」と注意しつつも、政宗自身は親しい友人・知人などに贈っている。贈答先として知られるのは一乗院尊覚法親王、近衛信尋、西洞院時直、そして将軍・徳川家光などである[6]既出『仙台市史 通史編3 近世1』(2001年)特論1「伊達政宗の教養」による。

また政宗の庶長子・秀宗(宇和島藩初代藩主)や長女・五郎八姫にも分け与えられ、それらは現在も残されている[7]秀宗伝来のものは現在は公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵。五郎八姫伝来のものは現・瑞巌寺蔵。『河北新報』2017年10月19日「<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第3部 豊穣(3)香道/人脈広げ存在感増す」(2018年1月11日閲覧)。

貴重な香木であるため、今後たかれることはまずないだろうが、政宗の銘の由来の通り、「たかぬ前より」その香りに思いを馳せるのも一興ではないだろうか。

脚注

脚注
^1『仙台市史 資料編12 伊達政宗文書3』(2005年)収録2829による。
^2伊藤正義校注『新潮古典文学集成 謡曲集 上』(新潮社、1983年)による。底本は法政大学能楽研究所鴻山文庫蔵・光悦謡本(特製本)で、慶長から元和年間に刊行された古活字本である。なお現行観世流も同文。
^3香木を手に入れた細川家臣・興津弥五右衛門の名前。
^4『仙台市史 通史編3 近世1』(2001年)特論1「伊達政宗の教養」では、この和歌を、藤原清輔編『和歌一字抄』に例歌として出る源行宗の和歌とする。
^5『翁草』巻之六「当代奇覧拔萃」。引用は『日本随筆大成19』吉川弘文館、1978年による。なお、この『翁草』の説話を元に森鴎外が小説『興津弥五右衛門の遺書』を書いている。
^6既出『仙台市史 通史編3 近世1』(2001年)特論1「伊達政宗の教養」による。
^7秀宗伝来のものは現在は公益財団法人宇和島伊達文化保存会蔵。五郎八姫伝来のものは現・瑞巌寺蔵。『河北新報』2017年10月19日「<独眼竜挑んだ道 生誕450年>第3部 豊穣(3)香道/人脈広げ存在感増す」(2018年1月11日閲覧)。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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