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【仙台藩伊達家の能9】初世北(喜多)七大夫長能 新しいシテ方流派を創始

篠山春日神社能舞台

これまで伊達家と能楽との関わりについて、いくつもの記事を掲載してきた。そのきっかけは、表章氏の著書『喜多流の成立と展開』(平凡社、1994年)を読んだことである。この書籍は、能楽シテ方喜多流の歴史を著した研究書であるが、その記述の大半は、喜多流の祖・初代北(喜多)七大夫長能(1586~1653)について割かれている。

北七大夫は、伊達政宗よりも20歳ほど年下ではあるが、同時代を生きた人物であり、実際に関わりも多い。既に何度か言及しているが、このあたりで、北七大夫についてまとめて紹介する。

なお初世七大夫を、後裔の同名の能役者との区別のため、特に「古七大夫」と称することがある。この記事でもそれに従った。

手猿楽の時代

戦国時代から江戸時代初期にかけての時代は、能楽を自演して慰みを見出していた素人たちが、技量の向上とともに専業役者化(手猿楽)して活躍する例が多い時代であった[1]片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)。先に述べた通り、天正年間に伊達家に出入りしていた能役者たちの大半は京都の手猿楽であったし、政宗が小姓・近習たちを能役者に仕立てたのも、その延長上であろう。

観世座小鼓方の観世元信が書き記した『近代四座役者目録』[2]以下、内容や引用は田中允編『能楽史料第六編 校本四座役者目録』(わんや書店、1975年)による。の記述は、観世座と大和猿楽こそが正当な能だとする意識を強く持ちながらも、多くの素人役者たちの伝記が収められている。それは当時の素人役者たちが、能楽界の中で無視できない存在であったことを示す証拠である。

彼ら素人出身の能役者たちの中には、平岩親好のように新たな流儀を立てる人物もいたが、それらはワキや囃子・狂言など三役(助演者)である。能の主役であるシテを演じる流儀は、あくまで大和猿楽四座の系譜を継ぐ観世・金春・宝生・金剛の四流派だけであった。

その体制を、能楽史上唯一、変化させたのが、古七大夫である[3]喜多流以外にも、大正~昭和初期にかけて観世流より新たなシテ方流派・梅若流が存在した時期があった。しかし戦後、観世流に復帰する形で消滅した。。それから後、旧来の四流派に喜多流を加えた「シテ方五流」の体制が、能楽界の基本となった。

それには将軍・徳川秀忠の後援があり、江戸時代初期という、新たな社会秩序を創り出す時代であったことも大きいが、何よりも古七大夫の、他を追随させない実力と資質があったこともまた間違いないのである。

初代北(喜多)七大夫の経歴

古七大夫と伊達政宗の関わりを述べる前に、まずは古七大夫の経歴について、表氏の著書を踏まえつつ簡単に紹介する。

古七大夫の基本的な資料は、例によって『近代四座役者目録』である。その上巻『四座役者目録』にも「金剛七太夫」として古七大夫の記述が存在するが、内容がほぼ重なるため、『近代四座役者目録』から「喜多七太夫」の記述のみを以下に引く。

喜多七太夫 戒名順慶。
初ハ、シロウトニテ、後、金剛太夫ニ成ル。今ノ右京成人シテ、金剛太夫ヲ渡シ、隠居分ニ、七太夫成ル。サテ、北ト、又名乗ル。七ツヨリ能ヲ器用ニスルニヨリ、七ツ太夫ト云。後、七太夫ニ成ル。今春八郎ノ聟也。サレドモ、能殊ノ外器用ナルニヨリ、ヨク教ヘタラバ子孫ノ為アダナルベシト思ヒ、其上、中モ悪ク、能ハ、以上八番ナラデハ教ヘズ。サレドモ、八郎、又少進ノ能ナド、見取り、当代ノ上手也。能勢アリ。子ヨシ。サレドモ、シカト師匠ナキニヨリ、習ヒ無シ。幸五郎次郎、蘭拍子ヲ教ヘル。此外ニモ習タルヨシ
謡声、調子ニハ掛ル。美布ウツクシクナキ声也。何ニ成テモ、甲斐々々シクスル。道叱モ、少進能ヨリ増シタル事多シ、ト被申。是モ、傾城ナドニ、大坂乱ノ砌、牢人ノ時分教フル。
声カワリ、身ナリナド悪ク成タル刻ハ、白瓜太夫ト、世間ニ云ト也。其刻、道叱申ニハ、声悪ク身ナリ悪キハ、頓而直ルベシ。今春八郎果タラバ、一ノシテニテ可有、ト申ト也。案ノ如ク、当代ノ上手也。七太夫モ此事聞及ビ、我等ニ、満足ノ由、度々申也。我等所ヘモ、誓文状数通アリ。承応二癸巳年、正月七日ニ、於江戸、腫物出来テ、果ル。行年六十八。

この他に頭書があり習物の上演について触れているが省略する。

元は素人だったが、7歳のころから上手く能を演じたので、七ツ大夫と呼ばれた。養子として一時期金剛大夫を継ぎ、金春安照の娘婿となるが、その器用さを危険視されて8番しか稽古されなかった。大坂の陣の際には何らかの形で豊臣方に荷担していたらしく[4]大坂夏の陣に際して、古七大夫が岳父・金春安照とともに大坂城へ籠城したとの説もあるが、『喜多流の成立と展開』にて否定されている。、その後、しばらく浪人して能楽界から姿を消した。

しかし元和5年(1620)、将軍徳川秀忠の上洛の際に金剛座への復帰が許され、以後は観世道叱[5]観世又次郎重次。観世座小鼓方。観世元信(『近代四座役者目録』の編者)の父。が語った通り、金春安照の没後の能界の第一人者となった。

七大夫は復帰以後、急速に秀忠の後援を得て、復帰の翌年、元和6年(1621)8月6日から江戸御成橋で勧進能興業が許されている。このことは金剛座を離れて独自の活動を行うきっかけになったらしい。

伊達政宗と古七大夫の関わり始め

伊達政宗が古七大夫と関わりを持ちはじめたのがいつごろだったかは明確には分からない。

しかし『伊達治家記録』元和9年12月21日条には政宗が江戸上屋敷で大御所・徳川秀忠御成能を催した記事によると、全体で7番演じられた能の内、4番を桜井八右衛門が、残り3番を古七大夫が演じている。これは明らかに秀忠の古七大夫贔屓に合わせた形であっただろう。以降、江戸での政宗催能は、古七大夫と桜井八右衛門主体のものとなる。

伊達家以外でも秀忠の好みにあわせて古七大夫を贔屓する大名は多く、江戸初期に能役者を召し抱えた諸藩のシテ方はほとんど喜多流となっていった。

脚注

脚注
^1片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)
^2以下、内容や引用は田中允編『能楽史料第六編 校本四座役者目録』(わんや書店、1975年)による。
^3喜多流以外にも、大正~昭和初期にかけて観世流より新たなシテ方流派・梅若流が存在した時期があった。しかし戦後、観世流に復帰する形で消滅した。
^4大坂夏の陣に際して、古七大夫が岳父・金春安照とともに大坂城へ籠城したとの説もあるが、『喜多流の成立と展開』にて否定されている。
^5観世又次郎重次。観世座小鼓方。観世元信(『近代四座役者目録』の編者)の父。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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