兵庫県丹波市・上新庄式三番叟に感じた「祈り」
兵庫県丹波市上新庄の天満神社で、地域の氏子さんたちによって奉納される神事芸能「上新庄式三番叟」。昨年秋から何度かに分けて書いてきましたが、今回で最後です。年をまたいでしまいましたこと、とても残念です。
今回は、今まで書けなかった気づいた点や細かい点、そこからの感想など記させていただきます。
見守る人びと
今まで舞台上の所作ばかり記していましたが、ここでいうのは、観に来ていた人たちのこと。ほとんどは近くの地域の人たちのようで、出演者の家族も多いのかと思います。
私が奉納を拝見した2016年10月8日(土)は朝から天気が悪く、昼はかなり激しい雨が降っていました。奉納が開始される夜20時ごろになると、雨は落ち着いていたのですが、奉納中にも何度か雨が降ってくるような様子でした。
しかし、一人として帰ることなどはなく、見守るような視線が印象的でした。そして実際に見守っているのだと思います。ここの式三番が、地域の人たちによって支えられてきていることが、見守る視線から強く感じられました。
式三番の「祈り」とは
そして舞手たちがとても楽しそうに精一杯つとめている様子にとても感動しました。
式三番は、白い翁が天下泰平・国土安穏を祈り、黒い三番叟が五穀豊穣を祈る、神前に捧げる祈りの芸能だと説明されますが、ではその祈りとは何か。私が感じたのは、「感謝」ということでした。
五穀豊穣とは、もちろん、農業にいそしむ人たちの行動の成果ではあるのですが、それ以上に人の力の及ばない天気や温度などにも作用される点が多く、まさに自然からの贈り物なのだと思います。
だからこそ、その自然に対して「感謝」を捧げ、また次の年の豊作を願う…そんな形がこの式三番なのだ、と見ていて感じました。
能楽や歌舞伎・文楽などでも式三番が行われていますが、職業芸能者となったことで、その芸が磨き込まれ、深みを得た一方で、本来の信仰心からは少し乖離してパフォーマンスとなってしまっている面もとても感じるのです。
芸態の古さ以上に、舞を舞う意味の部分で、ここの上新庄式三番叟は能楽のルーツだと感じて、とても楽しい気持ちで帰らせていただきました。
40年間の変化
さて、このレポートを書くにあたって最も参考とした本は、既に一度触れましたが、喜多慶治『兵庫県民俗芸能誌』(錦正社、1977年)にある「上新庄 お天満さんの式三番」の記述でした。非常に詳細な記録になっており、このような大著がなされたことは、本当にありがたいと感じるばかりです。
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ただ、これは40年前に出版された本であり、実際の調査はさらに前のものですから、それからの時代の流れの中で変化したのか、細部において、いろいろと違う部分も多かったです。
一例を挙げると「式三番に出演するものはお天満さんの氏子中、何れも長男に限り」とありましたが、私が今回拝見した中では、小謡の中に女の子も混ざっており、少子化の影響か、そのあたりの決まりも変わってきているようですね。
そろそろ、そのあとの変化を追った調査がなされても良い時期かもしれません。
さらに備考
上新庄式三番叟は、明治の中期ごろに同じ丹波市氷上町の稲畑から伝えられたものと、天満神社にあった説明板に書かれていました。その伝承元とされる稲畑でも現在、式三番叟が伝えられています。
私も最初勘違いしたので敢えて記しておくと、上新庄式三番叟は「上新庄式」の「三番叟」ではなくて「上新庄」の「式三番叟」です。
能楽で《翁》と呼ばれる儀礼演目のことを、より正確な言葉としては「式三番」といいます。『能・狂言辞典』によると、「定式の三番の演目」の意味だそうで、「父尉」「翁」「三番叟」の三つのこと。
ですが、「父尉」は早く退転して、世阿弥のころにはほとんど演じられなくなったとされます。現在の能楽ではシテ方が担当する「翁」に全体を代表させて演目名としても使用します。
さらに文楽や歌舞伎などでは舞踊が重視されたためか、最も所作の多い「三番叟」が演目名になっていますが、時に「式三番叟」という名前も使われます。これは本来の名前である「式三番」と「三番叟」が合体した言葉なのでしょう。
上新庄の式三番叟も、名前は文楽や歌舞伎など近世の呼び名を取り入れたものなのだと想像されます。芸態としても、内容は、かなり能楽・猿楽系統の翁に近いようですが、カゲ打ちが打つツケは、歌舞伎など近世芸能で使われる道具ですので、どこかで近世芸能の影響を受けたように想像されます。大鼓と入れ替わったのではないか、という人もいました。
前回の記事
→兵庫県丹波市・上新庄式三番叟を見てきました
→兵庫県丹波市・上新庄式三番叟の構成
→兵庫県丹波市・上新庄式三番叟の進行