【仙台藩伊達家の能3】近習から幸流大鼓方へ 伊達政宗の大鼓役者・白極善兵衛言次
伊達政宗は、先に記した桜井八右衛門の他にも家臣を能役者に仕立てている。後に一家をなした大鼓方白極家と笛方平岩家である。
白極家初代の善太郎長次は、『宮城県史』によると、室町幕府管領・細川晴元の側近だった三好政長の子であったというが、政宗が伏見にいた時分に茶の湯を以て召し出された。その子・善兵衛言次は三好一族の故を以て、慶長5年(1600)18歳[1]坂田啓編『私本仙台藩士事典(増補版)』(2001年)による。『宮城県史14 文学芸能』(1958年)には16歳とある。の時に近習として召し出されたとされる。
明治3年(1870)に仙台藩十三代藩主・伊達慶邦が著した『学びの鏡』にも、言次についての記述がある。
時代を隔てた明治に入ってからの記述ではあるが、仙台藩や伊達家伝来の資料に基づいたものであり、信頼できる内容であろう。これによると言次も元は政宗の近習であり、鼓の相手を命じられたとあり、桜井八右衛門が金春安照への入門を命じられた状況とほぼ同じことが分かる。
なお後半には大坂の陣の際に騎馬で政宗に従ったとあるが、この話も桜井八右衛門同様、言次の本分があくまで武士であったことを表す逸話だろう。
また『近代四座役者目録』にも「白極善兵衛」として記載されている。
言次の初めの師である「奥山左近(奥山左近将監とも)」については、天正年間に薩摩に下り、京都の手猿楽・渋谷大夫と共演した大鼓方であり、同名の子が薩摩藩に抱えられたこと以外はあまり詳細は知られていない[4]片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)。。
奥山左近の後に師事した「五郎次郎」は小鼓方幸流の二世・幸五郎次郎正能(月軒、1539~1626)である。言次が幸正能に入門したのは政宗の命令であったらしい[5]『宮城県史』および表章・天野文雄『岩波講座 能・狂言I 能楽の歴史』(岩波書店、1987年)「五 地方諸藩の能楽」。正能は織田信長や豊臣秀吉に高く評価された小鼓の名人であるが、当時、小鼓方が自流にあった大鼓方を養成する例が多くあり[6]『岩波講座 能・狂言I 能楽の歴史』「四 諸座・諸役・諸流の消長」大鼓方諸流。、白極言次もその一人と見てよいだろう。そのため白極家は代々、大鼓方幸流を名乗っている。
白極言次は伊達家に仕えながら京都に住んでいたが、伊達家関連の催しにのみ参加していたわけではなかった。例えば慶長10年(1605)9月21日・22日に京都・禁裏女院御所で下間少進が演能を行っているが、大鼓方として「善大郎」が加わっている(『能之留帳』)。
『当代記』に慶長12年(1607)正月の江戸城移徙能において、将軍徳川秀忠より代表的な能役者たちに下賜が行われたことが書かれているが、その中に「大つゝみはくこく善太郎」[7]『史籍雑纂 当代記 駿府記』続群書類従完成会、1995年による。とあり、白極言次はこのころ、父と同じ善太郎を名乗っていたらしい。なお言次は金春安照・観世身愛・金春氏勝(安照の長男)などの能の大鼓をつとめている[8]国文学研究所 連歌・演能・雅楽データベースの検索結果による。2013年2月28日閲覧。原史料は伊達文庫蔵『古之御能組』。
言次は同年2月13日から催された江戸城における観世・金春両大夫の立合能にも出演している。主に観世方の大鼓を担当しているが、最終日には金春大夫氏勝の《谷行》もつとめている。当時20代半ばであった言次は、この出演記録から推測するに、その技量が広く認められていたようである。
『能之留帳』によると、慶長16年(1611)4月22日・23日に催された親鸞三百五十回忌能で、言次は下間少進の能の大鼓をつとめたほか、同18年には少進による江戸から高崎・越後・加賀を経て京都へと向かう演能指導旅行にも随行し、酒井家次の高崎城や松平忠輝の越後高田城で大鼓を打っている。
同20年にも下間少進邸での月次能でも《卒都婆小町》の大鼓をつとめていることから、慶長年間後半には、言次は下間少進と近しい位置にあったようである。
言次は元和5年(1619)4月2日に朝廷から伯耆大掾の受領号[9]近世において朝廷から出入の商人や刀匠・芸能者などに対して、顕彰の意味で下賜された国司の官。浄瑠璃の掾号は太平洋戦争後でも宮家から下賜される例があった。を賜わったらしい。片桐登氏の論考「江戸時代初期素人能役者考」には、『大日本史料』所引「柳原家記録」として以下の史料が紹介されている。筆者も『大日本史料』にあたったものの、どの条に引用されているのか確認できなかったため、以下は片桐氏稿からの孫引きである。
元(和五年四月)――――――――――二日 藤原言次任伯耆大掾 太(大)鼓打白極也
片桐氏は「型通り藤原姓を称して受領していることが分かるが、素人役者受領の資料として貴重といえよう。伊達政宗の奏請によって実現したものであろうか」と述べている。
脚注
^1 | 坂田啓編『私本仙台藩士事典(増補版)』(2001年)による。『宮城県史14 文学芸能』(1958年)には16歳とある。 |
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^2 | 仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編9』(2008年)所収資料2による。 |
^3 | 田中允編『能楽史料第六編 校本四座役者目録』(わんや書店、1975年)による。 |
^4 | 片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)。 |
^5 | 『宮城県史』および表章・天野文雄『岩波講座 能・狂言I 能楽の歴史』(岩波書店、1987年)「五 地方諸藩の能楽」 |
^6 | 『岩波講座 能・狂言I 能楽の歴史』「四 諸座・諸役・諸流の消長」大鼓方諸流。 |
^7 | 『史籍雑纂 当代記 駿府記』続群書類従完成会、1995年による。 |
^8 | 国文学研究所 連歌・演能・雅楽データベースの検索結果による。2013年2月28日閲覧。原史料は伊達文庫蔵『古之御能組』。 |
^9 | 近世において朝廷から出入の商人や刀匠・芸能者などに対して、顕彰の意味で下賜された国司の官。浄瑠璃の掾号は太平洋戦争後でも宮家から下賜される例があった。 |