【仙台藩伊達家の能6】政宗が能のやり直しを命じる 金剛大夫勧進能
伊達政宗と能との関わりの中で、最も衝撃的なものの一つが、寛永7年(1630)5月18日から催された金剛大夫勧進能での事件であろう。
事件のあらましを『木村宇右衛門覚書』[1]伊達政宗の晩年に仕えた小姓・木村宇右衛門が、政宗から聞いた内容を、後にまとめた書物。102段から紹介する。元史料の本文を掲出するのが本来であるが、長大になるため、ここでは省略する。文末に掲出したため、興味がある方は一読いただきたい。
金剛大夫勧進能一件
ある年、江戸浅草で金剛大夫が上意を受けて勧進能[2]勧進能は、本来、寺社の造営や修復のための資金を集めること(勧進)を目的に催された有料かつ公開の能興業のこと。しかし室町中期から、実際には勧進ではなく演者の収入が目的であっても、有料かつ公開の能興業のことを一般に勧進能と呼ぶようになった(『能楽大事典』筑摩書房、2012年)。を催した。伊達政宗が観覧したその日、7番あった能が不出来であったため、政宗が「何にても一番所望」した。しかし金剛大夫は、勧進能の例として、囃子やワキ・狂言などの役者は自らの出番が終わり次第帰っており、最後の祝言能をつとめる役者しか残っておらず、上演はできないと断った。
すると政宗は怒り、「足軽共楽屋取巻き、太夫をはじめ一人も残さす叩き殺せ」と命じた。幕府公認の勧進能として、警固のために遣わされていた松平右衛門佐(正綱)の目付・花房勘右衛門も「御腹立至極」と政宗に同調し、同心たちに「召し取引き出せ」と命じる有様であった。
結局、金剛大夫が折れ、帰った役者たちを連れ戻して能が演じられることとなった。その間に、政宗は酒肴を芝居[3]『デジタル大辞泉』(小学館)「芝居」第5義「勧進の猿楽・曲舞・田楽などで、舞台と桟敷との間の芝生に設けた庶民の見物席。〈日葡〉」(2017年12月21日閲覧)。の観客に配ったため、上を下への大騒ぎで、能が始まっても見るものもいなかった。さらに盃代わりに配った角皿や鉢について、政宗が取るに任せて与えると告げたため、芝居の客たちは奪い合って持って帰った。
その日のうちに噂を聞いた将軍・徳川家光は「また政宗が人の真似てはならないようなことをしでかした」と言ったと、後に柳生但馬守(宗矩)を通じて聞いたという。
細川忠興書状にも記された
この勧進能での政宗のふるまいは、参勤交代で江戸にいた豊前国中津城主・細川忠興が、国元にいた息子・細川忠利に宛てて記した寛永7年(1630)5月22日の書状にも触れられている[4]東京大学史料編纂所編『大日本近世史料 細川家史料7 細川忠興文書7』(1980年)所収1732。なお、竹本幹夫「細川藩関係資料に見る江戸時代初期の能楽(上)」(『能 研究と評論』17、月曜会、1989年)や山本博文『江戸城の宮廷政治』(講談社学術文庫、2004年)に詳しい解説がある。。
そのことで、『木村宇右衛門聞書』では「有年」としか記されていないこの事件が、寛永7年であることが判明する。さらに『木村宇右衛門聞書』では「五日目」とあるが、古川久「寛永年間の勧進能」[5]『能楽研究』4所収、法政大学能楽研究所、1978年。なお紹介番組の原史料は法政大学能楽研究所般若窟文庫所蔵『江戸初期能組控』。で紹介された番組により、実はこの年の金剛大夫勧進能は実は全4日間であったことも分かる。『木村宇右衛門覚書』の日付は誤りであろう。
ほぼ同様の記事を収める『政宗公名語集』でも「第五日目」[6]小倉博編・高橋富雄新訂『伊達政宗言行録―政宗公名語集』(宝文堂、1987年)による。とし、『政宗記』では「一七日の勧進能有り。二日めは」[7]小林清治校注『戦国史料叢書 伊達史料集 上』(人物往来社、1967年)所収「政宗記」による。としている。どうやらこの話について、伊達家周辺では日付の混乱があったようである。
話を細川忠興の書状に戻すと、書状には「丹五郎左(丹羽長重)殿、立飛騨(立花宗茂)殿我々へ物語にて候」とあって、忠興が直接目にしたわけではなく又聞きらしい。しかし、この書き様はむしろ情報源を明示することで、内容が正しいことを強調する狙いがあるようだ。書状に記された事の経緯が『木村宇右衛門覚書』と大まかには同じである[8]ただし『木村宇右衛門覚書』では「松平右衛門殿目付に花房勘右衛門殿」とある勧進能の警固役が、忠興書状では「島田弾正(利正)」になっているなど、細部の違いは存在する。ことが、内容が事実であることを示していよう[9]なお、竹本氏稿には「三斎父子は政宗を警戒し、感情的にも反発していたことが数々の書状から明らかである。」とある。。
忠興書状によると、伊達政宗は「海士と舟弁慶と是非共仕候へ」と所望した。古川氏「寛永年間の勧進能」で金剛大夫勧進能の番組を確認すると、2日目の演目が《翁》《賀茂》《真盛(実盛)》《湯谷》《舟弁慶》《百万》《海士》、そして最後の祝言能となっており、政宗の所望した演目が重なる。
これは推測ではあるが、「所望」とは言いながら、実質的にはやり直しを命じたものだったのではないだろうか。既に帰った役者を呼び戻して演能させようとしたこともその推測を助けよう。
伊達政宗がこの日にこうも強硬な姿勢を取ったことは、もちろん政宗の個人的な性格もあるだろうが、「今日の役者共の内、大かた我等合力とらするもの共也」とあるとおり、伊達家が金剛大夫以下の代表的な出演者に扶持を与えていたため、という可能性も考えられる。幕府抱えの役者が、諸藩からも扶持を与えられていた例は、北七大夫長能(津藩)・金春八左衛門(尾張藩)・葛野九郎兵衛(紀伊藩)などの例があった[10]表章『喜多流の成立と展開』266頁。。
また「近年大名衆旗本衆までも別に慰みなきによって、能囃子繁く取はやされ候ゆへ、役者に驕りつきての事也」とある通り、この時期、幕府・大名・旗本たちの間で能が愛好されていることをかさに着た能役者たちの「驕り」が、一部で問題視されつつあったという背景もあったらしい。
翌年ではあるが、寛永8年(1631)3月5日に細川忠利が、忠興宛に出した書状には、老中・酒井忠世が将軍徳川家光へ行った提言が記されている。
竹本氏によると「侍のごとく道具を持たせとあるのは、従者に諸道具も担がせて供をさせることで、槍を持たせて街道を往来することすらあった」とのこと。贔屓筋の寵愛を利用して、傍若無人なふるまいをする能(猿楽)役者もあったのであろう。
忠世は、驕りの甚だしい能役者を6・7人ほど見せしめのため流罪することを提言した。しかし将軍家光は消極的で、「慮外」「おごり」には「曲事」との判断を示したものの、金品を受け取ることは芸人の常であると述べて、擁護している。
上の忠利書状に対して忠興は「慮外のもの大略上手共にて可在之候間、可為其御用捨と存候」と感想も記している。つまり、酒井忠世が批判の槍玉にあげていた能役者の中に、家光愛顧の上手たちがいたために、「慮外」「曲事」という言葉で済まされたのだろうと推測したのだ。竹本氏はその推測を「図星であろう」と評されている。
話を金剛大夫勧進能へ戻すが、政宗の今回の行動について、忠興は手紙に「是ハ余うそさうなる事ニ候へ共」と信じられない思いを記している。
また『木村宇右衛門覚書』でも家光の感想として「又人の真似てならぬ事かな」とあるように、この時の伊達政宗の行動は、当時の常識に照らしても、やはり異例のことであったらしい。
この行動の原因は、伊達政宗個人の性格による部分が多いかと思われるが、その背景には、当時の多くの能役者たちに見られた「驕り」があったこともまた指摘できよう。
金剛大夫か喜多七大夫か
この金剛大夫勧進能一件。伊達政宗の逸脱したエピソードとして、インターネットでも多くのサイトで紹介されているが、その際に能役者の名前を「喜多七太夫」とするものが多い[12]「伊達政宗、喜多七太夫の勧進能・悪い話」(戦国ちょっといい話・悪い話まとめ 2008年10月16日)、「伊達政宗公の能鑑賞話!喜多七太夫観進能での暴れっぷりとは!」(戦国武将・戦国大名たちの日常 2017年9月27日)など。どちらも2017年12月21日閲覧。。日本史研究者の著作でも、例えば山本博文『江戸城の宮廷政治』(講談社学術文庫、2004年)[13]原著は読売新聞社、1993年。に「喜多七太夫の勧進能」と記されている。
この記事で主な資料として用いた『木村宇右衛門聞書』など、生前の政宗を知る者たちが記した伝記類にも、より史料性が高いとされる細川忠興書状にも、一貫して「金剛大夫」と明記されているにも関わらずである。
その原因の一つとして、細川忠興書状を収めた東京大学史料編纂所編『大日本近世史料 細川家史料7 細川忠興文書7』(1986年)が、本文「金剛太夫」の右に(喜多長能)と註していることが原因ではないだろうか。
喜多流初代・七大夫長能については、また別に詳しく取り上げるが、長能が喜多流の初代となる以前、「金剛三郎」「金剛大夫」「金剛七大夫」として活動していた時期があった。『細川家史料』が「金剛大夫」の本文に(喜多長能)と註しているのは、その経歴を踏まえたものであろう。
しかし、七大夫長能はすでに元和6年(1620)には金剛座とは別に独自の動きを取るようになり、寛永4年(1627)ごろからは「喜多」または「北」姓を使用して、名目上も独立したことが、表章氏の『喜多流の成立と展開』(平凡社、1994年)などによって明らかにされている。
この一件で寛永7年(1630)であるため、政宗と関わった能役者は、あくまで金剛大夫なのである(当時の金剛大夫は右京吉勝か)。
『木村宇右衛門覚書』102段本文
以下に今回扱った『木村宇右衛門覚書』102段本文を、小井川百合子編『伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書』(新人物往来社、1997年)より掲出する。
読みやすさを優先して、句読点やカギカッコ、段落の追加などを行い、また能に直接関係ない部分を省略するなど、元史料に改変を加えていることは了承いただきたい。
(中略)
扨五日目ハ能七番あり。太夫も役者も日重なり候故か、取分其日の能は不出来にて桟敷も芝居も退屈、既に祝言なるべき前に太守公、太夫所へ御使被下、「今日の能不出来也。大儀ながら何もへ御暇乞のためにも、何にても一番所望」の由被仰下、御自身御桟敷の前の欄干に御手かけ給ひ、「惣桟敷芝居の衆も聞給へ、今日の能残多覚候間、唯今一番所望と申遣し候、芝居騒がすして見物せよ」との給ふ所に、
太夫「御請にハ御所望有難仕合に候へども、勧進能の習ひに御座候へバ、役者共其身其身の役をつとめ申候へバ段々罷り帰り、祝言の役者ならでハ楽屋におり不申候。此役者にてハ御慰みになるべき能ハ不罷成候。御免なし被下様に」と申上、「某も日を重ね申候間、叶ひがたき」由再三申上げれバ、
「東西諸大名御見物の折節、太夫ハ草臥、役者ハなしなどと申事、推参至極、役者の善悪にもかまハず所望成まじきハ口惜しき事也。かたく仕間敷にをゐては、以来役者類の驕らぬ見懲りに、足軽共楽屋取巻き、太夫をはじめ一人も残さず叩き殺せ」との給ふ所へ、
松平右衛門殿目付に花房勘右衛門殿御出、「御腹立至極仕候、脇桟敷の御方より御所望たちといふ共、御理りにハ背かれまじき処に、いはんや御桟敷よりの御所望、今日ハ五日目なり。かたがた仕合とハ存じ候ハて口惜しき事、某共計らへ申し付べし。同心の者ども楽屋へ参り、仕まじきと申に付てハ召し取引出せ」とのたまふ。
然処に太夫、「如何様にも被仰付次第可仕候へども、切を囃させ申候役者に御座候へば罷成まじきとハ申上候へども、何とぞ申合、此にても御能仕見可申候」と申上る。
其時「太夫可仕と申に付てハ子細なし。扨又今日の役者共の内、大かた我等合力とらするもの共也。たとへ役目の能しまい候ても斯様に我等居候ハバ、桟敷へ面指出し、手前役つとめ罷帰由ハ申べき事也。近年大名衆・旗本衆までも別に慰みなきによって、能囃子繁く取はやされ候ゆへ、役者に驕りつきての事也。いまだ宿々までは行着くまじき」と言へば、「徒の衆・小姓共の馬に乗り、追っ付き次第引つ返し参れ」とて遣ハさる。
馬共数十疋に御徒の衆打乗り打乗り馳せ参る。其間芝居ひつそとして居たり。太守公、御出「惣芝居の者共いわれぬ能所望して役者不足によって待遠ならん。大儀ながら今少し待ち給へ、あまり寂しきに酒飲ませよ」とのたまふ。小姓頭の衆に被仰付承るとて申し渡す。
(中略)
芝居中は上を下へと響めき渡つて酒を飲む。桟敷桟敷いてさて夥しき見物かなと、内の酒宴をやめてこれを見る。能始まるといへども見る人もなし、漸しハ鳴り止まず。太守公喜び給ふて、「いかに人々ハ酒のふて面白からん」と仰せけれバ、一同に「忝し」と申あへり。
かかる所に御足軽共、長持の蓋箱の蓋へ、酒飲みたる角皿・鉢を取り集むるを御覧じて、「田舎者、見苦しき事ないたしそ、何にてもあれ、芝居中へ出たる物ハ皆々取らする也。思ひ思ひに取りて帰れ」とのたまへば、あっとふこそあれ、上を下へ奪ひ合い中々面白き有様也。
(中略)
塵を残さぬ有様中々の見物事也。其間に能も過、皆々帰り給ふ。其日に公方様此事きこしめし、「又人の真似てならぬ事かな」となのめならぬ御感の由、後に柳生但馬殿御咄なり。
脚注
^1 | 伊達政宗の晩年に仕えた小姓・木村宇右衛門が、政宗から聞いた内容を、後にまとめた書物。 |
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^2 | 勧進能は、本来、寺社の造営や修復のための資金を集めること(勧進)を目的に催された有料かつ公開の能興業のこと。しかし室町中期から、実際には勧進ではなく演者の収入が目的であっても、有料かつ公開の能興業のことを一般に勧進能と呼ぶようになった(『能楽大事典』筑摩書房、2012年)。 |
^3 | 『デジタル大辞泉』(小学館)「芝居」第5義「勧進の猿楽・曲舞・田楽などで、舞台と桟敷との間の芝生に設けた庶民の見物席。〈日葡〉」(2017年12月21日閲覧)。 |
^4 | 東京大学史料編纂所編『大日本近世史料 細川家史料7 細川忠興文書7』(1980年)所収1732。なお、竹本幹夫「細川藩関係資料に見る江戸時代初期の能楽(上)」(『能 研究と評論』17、月曜会、1989年)や山本博文『江戸城の宮廷政治』(講談社学術文庫、2004年)に詳しい解説がある。 |
^5 | 『能楽研究』4所収、法政大学能楽研究所、1978年。なお紹介番組の原史料は法政大学能楽研究所般若窟文庫所蔵『江戸初期能組控』。 |
^6 | 小倉博編・高橋富雄新訂『伊達政宗言行録―政宗公名語集』(宝文堂、1987年)による。 |
^7 | 小林清治校注『戦国史料叢書 伊達史料集 上』(人物往来社、1967年)所収「政宗記」による。 |
^8 | ただし『木村宇右衛門覚書』では「松平右衛門殿目付に花房勘右衛門殿」とある勧進能の警固役が、忠興書状では「島田弾正(利正)」になっているなど、細部の違いは存在する。 |
^9 | なお、竹本氏稿には「三斎父子は政宗を警戒し、感情的にも反発していたことが数々の書状から明らかである。」とある。 |
^10 | 表章『喜多流の成立と展開』266頁。 |
^11 | 『大日本近世史料 細川家史料10 細川忠利文書3』(1986年)所収417。 |
^12 | 「伊達政宗、喜多七太夫の勧進能・悪い話」(戦国ちょっといい話・悪い話まとめ 2008年10月16日)、「伊達政宗公の能鑑賞話!喜多七太夫観進能での暴れっぷりとは!」(戦国武将・戦国大名たちの日常 2017年9月27日)など。どちらも2017年12月21日閲覧。 |
^13 | 原著は読売新聞社、1993年。 |