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三好長慶と能楽の関わりを記した史料①

英雄百人一首 三好長慶

能楽は、その歴史の初期から武家と強く結びついてきました。

永和元年(1375年)[1]その前年説もあり。に京都今熊野で行われた、大和猿楽・観阿弥一座(後の観世座)による勧進猿楽に、将軍足利義満が訪れて観覧したことが、歴史の記録としてはっきりと残っている、武家と能楽の関わりの最初です。義満は観阿弥の確かな芸と世阿弥の美少年ぶりに魅せられ、以後、強力に猿楽を後援していきます。

義満の能楽愛好は、彼の個人的なものとも言えますが、その後、四代義持・六代義教・八代義政と能楽を愛好する将軍が続くと、室町幕府の先例重視もあって、能楽は武家の故実書などにも記されるようになります。つまり、武家にとっての必須教養となったのです。

幕府管領・細川氏の家臣から身を立てた三好長慶も当然、教養として能楽を身に付けていたようです。よく知られている連歌や茶道と比較すると、能楽との関わりは際立ったものではありませんが、細かな記録を丹念に見ていくことで、三好家を取り囲む武家文化の一端を覗くことができるでしょう。

元服前から能楽と関わる三好長慶

管見の中で、最も古い三好長慶と能楽の関わりは、京都相国寺鹿苑院主歴代の執務日記である『鹿苑日録』の天文5年(1536)11月19日の記録です。

賀公事無為也。右京兆江三好仙熊一献。有猿楽也。[2]辻善之助『鹿苑日録』太洋社、1934年。

「右京兆」は右京大夫を名乗っていた、当時の三好長慶の主君・細川晴元のこと。「三好仙熊」は、長慶の元服前の幼名です。

長慶は、この時点で既に元服を終えているという説もありますが、少なくとも幼名で呼ばれるほど、若かったようです(当時15歳)。長江正一氏は、「世間ではまだ幼名で呼ばれていても、十五歳で堂々と晴元を招いて平和祝賀の宴を開いた」[3]長江正一『人物叢書 三好長慶』吉川弘文館、1963年。と記しています。

長慶は10歳で父・元長を亡くしたため、幼くして三好家の当主となっていました。なお幼名の千熊のあと、元服して「利長」→「範長」→「長慶」と名を何度も変えていますが、この文章では以下、基本的に「長慶」で通します。

三好長慶主催による観世小次郎の演能?

その3年後の天文8年(1539)1月25日、室町幕府政所代・蜷川親俊[4]生年不明~永禄12年(1569年)。後に「親世」と改名。の日記『親俊日記』に、能楽との関わりが現れます。

一、細川殿三好孫二郎一献申之、其付而観世能可在之処、観世四郎与同又二郎脇之儀上意大夫仰出事在之。大夫儀不罷出、観世小二郎能仕之由候。貴殿御出。[5]竹内理三編『増補 続史料大成 親孝日記 親俊日記一』臨川書店、1968年。

この時は、1月14日に長慶(上記の「三好孫二郎」)が2500の手勢を連れて入京した直後で、15日に主君の晴元は尾張の織田信秀[6]織田信長の父。から献上された鷹を長慶に与えています。そのため、この長慶主催の、「細川殿」を歓待するための観世大夫の能は、鷹への返礼かと思われ、晴元と長慶の主従関係の確認の場という意味が強いようです。

なお、この記事に名前の現れる観世四郎[7]四郎左衛門とも。観世元重(音阿弥)の子で、前名・小四郎。は観世座の脇之為手であり、また観世又次郎と観世小二郎(小次郎)もワキ方です。この時は「大夫儀不罷出」、七世観世元忠は出勤せず、代わりに観世小次郎(元頼)が能(シテ)をつとめたとあります。

シテ方・ワキ方の役割が完全に分離している現在の感覚ではにわかには信じがたいのですが、当時はあったことなのでしょうか。興味深い記録です。

三好長慶の観能中暗殺未遂事件

さらに飛んで12年後の天文20年(1551)3月。三好長慶もすでに30歳。政治的に主君である細川晴元や、さらに将軍・足利義輝をも圧倒するようになっています。

そんな中、長慶が能を楽しんでいる途中に暗殺されかかるという事件が起こります。公家・山科言継の日記『言継卿記』[8]以下の『言継卿記』引用は『言継卿記 第三』続群書類従完成会、1998年による。から引用しつつ紹介していきます。

十四日、壬寅、陰、天一天上、(略)
〇伊勢守宿所へ三好筑前守罷向、将棊有之、云々、次乱舞有之、及黄昏於彼亭奉公衆進士九郎自害、酔狂、云々、仍則三好帰了、伊勢守送之、云々、無殊事、但近辺揺動了、

最初に名前が記される「伊勢守」は、室町幕府の政所執事を世襲する伊勢氏が代々名乗る当主名。この時の当主は伊勢貞孝。将軍側近であるべき人物ですが、当時の十三代将軍・足利義輝より三好長慶(「三好筑前守」)に接近し、「貞孝は、京都の政治について長慶の協力者」[9]前掲、長江正一『人物叢書 三好長慶』より。という立場にありました。

その貞孝邸を長慶が訪れ、将棋、そして能楽(「乱舞」)が行われました。そんな中、黄昏時に至り、貞孝邸内で、奉公衆(将軍直属の家臣)であった進士九郎賢光が自害するという事件が起こります。

この時点では記した山科言継も事情が分からず、「酔狂」などと記していますが、それを受けて三好長慶が自邸に戻り、それを貞孝が送ったという事実のみが記されています。

一体何が起こったのか、詳細は翌日以降の記事に記されます。

十五日、癸卯、天晴、天一天上、
〇今朝風聞、進士九郎三好筑前守を三刀築之、云々、生死取々沙汰未定也、直に山崎へ各罷越、云々、伊勢守以下奉公衆、奉行衆各罷向、三好於死者、伊勢守以下可生害、云々、仍岩蔵山本罷出、東門前、東山辺悉放火了、東洞院自二条至五条乱妨、云々、声聞師邑悉放火了、自宇都、香西、柳本、宇津、三好右衛門大夫等人数出、云々、伊勢守宿所雑舎令放火了、近所之衆消之、云々、
(略)
〇禁裏申沙汰御能之事、依物忩無之、其上御稽古以下不相調之間、不及是非了、

一夜が明け、伊勢邸で何が起こったのか、詳細な情報が言継のもとにも入ってきたようで、「進士九郎が3度にわたり三好長慶を切りつけた」と記しています。そして、長慶の生死不明の噂が流れ、もし長慶が死んだ場合は伊勢貞孝以下の同席していた奉公衆・奉行衆は自害(「生害」)せねばならないと囁かれていることが記されています。

また、長慶の生死不明の混乱に乗じて、東山のあたりに放火があり、東洞院の二条から五条にかけて略奪(乱妨)が行われたり、さらに将軍義輝方の三好政勝(「右衛門大夫」[10]一般的には三好宗渭として知られる。この時期は長慶と敵対しているが、後に長慶に帰順。三好三人衆の一人となる。)や香西元成が丹波の宇津に侵入したこと、さらに伊勢貞孝の宿所や雑舎に放火があり、近所の者によって消火された伝聞が続けて記されています。

進士賢光・三好政勝・香西元成は将軍義輝方の人物ですし、長慶暗殺未遂と京都周辺の騒乱は連動していて、その背後には義輝がいたと当時から噂されていたようです。進士賢光による長慶暗殺未遂について、『細川両家記』は「御所様より被仰付たる共申候」と記しています。

三好長慶と直接は関係ありませんが、この治安悪化をうけて(「依物忩」)、宮中(「禁裏」)で予定されていた能は中止となりました。稽古も整わない(「其上御稽古以下不相調之間」)とあるので、演じる能役者たちの準備もできないような状態に陥ったので、「不及是非(是非に及ばず)」と記しています。

この部分は他所で多用されている「云々」がないので、伝聞ではなく、言継自身が直接触れた情報であることが分かります。

十六日、甲辰、天晴、天一天上、
〇三好無殊事、従方々使者に対面之由有之、今日も北辺各出、云々、自南方三好弓介以下二万計馳向追払、西賀茂、聖天寺悉放火了、敵昨今陣取故、云々、先敵之衆彼両所、北野、千本以下今宮悉乱妨、云々、南衆半分東へ打廻、事外大勢也、
〇禁裏御能之舞台以下取置了、予、庭田、極﨟、右衛門佐見舞了、

結局、事件の2日後である16日には長慶の無事が確認され、各方面の使者と対面している様子が記されています。南方から三好長虎(「三好弓介」)が2万の兵を率いて馳せ参じ、敵方の兵を追い払うなど、京都周辺の混乱も、長慶方の支配下に戻りつつあるようです。

そんな中、昨日中止になった宮中(禁裏)での能のために作られた能舞台が、使われないまま解体されたことが記されています。言継はその確認のために宮中へ出仕しています。

将軍・管領を地方に追い落とし、実質的に京都を支配した三好長慶。その権力者が生死不明となると途端に治安が悪化し、天皇を中心とした宮中も無関係ではいられず、それまで準備されてきた能公演が中止になるという様子が分かります。

こうなると能楽など時代の中での末端でしかないのですが、このような影響が出ることに、戦国時代の京都の支配者が責任を負うことと、文化芸能との具体的な関わりが見えてくるように感じています。

脚注

^1その前年説もあり。
^2辻善之助『鹿苑日録』太洋社、1934年。
^3長江正一『人物叢書 三好長慶』吉川弘文館、1963年。
^4生年不明~永禄12年(1569年)。後に「親世」と改名。
^5竹内理三編『増補 続史料大成 親孝日記 親俊日記一』臨川書店、1968年。
^6織田信長の父。
^7四郎左衛門とも。観世元重(音阿弥)の子で、前名・小四郎。
^8以下の『言継卿記』引用は『言継卿記 第三』続群書類従完成会、1998年による。
^9前掲、長江正一『人物叢書 三好長慶』より。
^10一般的には三好宗渭として知られる。この時期は長慶と敵対しているが、後に長慶に帰順。三好三人衆の一人となる。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」会員。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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