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【仙台藩伊達家の能11】喜多流勧進能と伊達政宗

古七大夫(初世喜多[北]七大夫)は、寛永6年(1629)7月23日から江戸浅草で勧進能を催している。

この時期には、同じ浅草で能の各大夫が勧進能を催していた。具体的には寛永5年(1628)3月21日から金春七郎重勝、寛永7年(1630)5月18日から金剛右京吉勝、寛永8年(1631)6月24日には宝生九郎成友が勧進能を催しており、観世を除く四人の大夫が一年に一人ずつ勧進能を催している形となっている。残念ながら、各大夫が毎年、浅草で勧進能を催した事情などは明らかではい。なお、この時の金剛吉勝勧進能が、政宗が追加の演能を強要した勧進能である

これらの勧進能の番組は前述の通り、古川久「寛永年間の勧進能」[1]『能楽研究』4所収、法政大学能楽研究所、1978年。なお紹介番組の原史料は法政大学能楽研究所般若窟文庫所蔵『江戸初期能組控』。に紹介されているが、この時、金春・金剛・宝生の勧進能はみな4日間であったところを、古七大夫のみは5日間行った。

当時、勧進能は4日間が例であり、古七大夫にしても先の元和6年(1620)に催した勧進能では4日間であった。この異例の5日間の勧進能について、狂言方大蔵流十三世・大蔵虎明の伝書『わらんべ草』45段の注に記述がある。

江戸浅草にて、北七太夫勧進能せられし時、四日にてハあまり残多事也とて、松平政宗殿、よくりう被成、五日ありし時、五日目、二日のまひかへ、はしがゝりまひし也[2]大蔵虎明著・笹野堅校訂『わらんべ草』岩波書店、1962年より。

勧進能は各日最初に神事である《翁》が演じられる例となっているが、これも4日間それぞれ差異を設けて演じることになっていた[3]天野文雄「翁猿楽の変遷」(『翁猿楽研究』所収、和泉書院、1995年)。。その《翁》で、狂言方が担当する「三番叟」(大蔵流は伝統的に「三番三」と記す)にも、初日之式から四日之式に対応した演式が存在したが、この時の七大夫勧進能では、異例の5日間となったために、本来は2日目の「舞替へ」である「橋掛舞」で間に合わせた、というのが引用部分後半の文意である。

注目すべきは前半の、この勧進能が5日間になったのは松平(伊達)政宗が「あまり残多事也とて」「よくりう(抑留か)被成」た結果だと記されていることである。この勧進能について表章氏の『喜多流の成立と展開』(平凡社、1994年)には、太鼓方観世家蔵「獅子等習事演能控」に

寛永六年七月廿三日あさくさニて七大夫勧じん能御座候。五日め、としよりしう御せうもうニて、御座候

とあることを紹介し、「としよりしう(年寄衆)」は後の老中にあたる幕閣、「御せうもう」は「御所望」の誤記として、『わらんべ草』の記述とあわせ、伊達政宗が幕閣に働きかけを行い、古七大夫勧進能の一日延長を取り付けたのだろうと述べている。

以降、喜多流の勧進能は5日間が恒例となった。本来はこの時のみの特例であったはずだが、徳川秀忠や伊達政宗などの強力な後援の元に、古七大夫が恒例としてしまったのであろう。古七大夫の跡を継いだ二世・十大夫以降の後継者たちも5日間の勧進能を催している。

脚注   [ + ]

1.『能楽研究』4所収、法政大学能楽研究所、1978年。なお紹介番組の原史料は法政大学能楽研究所般若窟文庫所蔵『江戸初期能組控』。
2.大蔵虎明著・笹野堅校訂『わらんべ草』岩波書店、1962年より。
3.天野文雄「翁猿楽の変遷」(『翁猿楽研究』所収、和泉書院、1995年)。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」会員。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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