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【仙台藩伊達家の能4】伊達政宗の小姓から一流の祖に 笛役者・平岩勘七親好

仙台藩お抱えの笛方平岩勘七家も、その初代・親好は伊達政宗の小姓の出である。『平岩勘七家譜書上』は以下のように記している。

平岩十三郎親好
 右十三郎儀、父印斎進退無御相違被下置、御小姓相勤罷在候処、笛少々仕候段相達 御耳、牛尾豊前守弟子被仰付、笛稽古仕、不残伝授仕候処、右豊前守儀、品々在之、流罪罷成候間、伝来之秘書并銘笛共、右十三郎不残相譲り申候に付、 貞山様 御思召入を以、平岩流申一流作り弘メ申候、平岩一流之根元ニ而御座候、一子相伝之秘蜜共代々覚来候、右十三郎儀、 御意を以勘七名改被 仰付、御能御楽屋奉行役相勤罷在申候[1]仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編9』(2008年)所収104による。

平岩親好は初名を十三郎といい、桜井八右衛門や白極言次と同じく、伊達政宗の側近くに仕える中で笛の才能を見込まれ、牛尾豊前の弟子となり、後に政宗(貞山公)の「御思召入」によって平岩流を創始したとある。

師の牛尾豊前は『近代四座役者目録』[2]田中允編『能楽史料第六編 校本四座役者目録』(わんや書店、1975年)による。

牛尾藤八 後、豊前ト云。
玄笛弟子ニテ、名字ヲモ慣フ。藤八、笛達者ニテ、拍子能ク、拍子ニ艶アリテ、能ク吹ク。併、習ハ委シクナク、手作多シ

と記されている役者である。豊前の名乗りは朝廷から受領号を授けられたためかと思われ、また北七大夫長能が江戸で能の秘曲《関寺小町》を復活上演した際には、京都から招かれて笛をつとめる[3]牛尾美江「牛尾玄笛と牛尾藤八」(『能楽研究』8所収、法政大学能楽研究所、1983年)など 、当時を代表する笛役者であった。

『平岩勘七家譜書上』には豊前が流罪となり、親好に「伝来之秘書并銘笛」が譲られたとあるが、これは疑わしい。『役者目録』によると、牛尾豊前には「是ガ弟子、今ニ世間ニ多シ」とあり、多くの兄弟弟子が存在する中で、平岩親好が新たに流儀を立てるにあたって、その権威付けのために、師の秘伝書や銘笛を相続したと称した可能性が高いように思える。

なお、『近代四座役者目録』の「中村噌菴」の項に「今ノ甚右衛門勘七モ、初、豊前ニ習イ、後、噌菴ニ習事ナド習ト也」との記述があり、親好が創流するに当たって「習ハ委シクナ」かった牛尾豊前の教えを補う形か、習事を中村新五郎噌菴(笛方一噌流二世)にも師事したらしい。そのためか平岩流は「音楽構造は一噌流に近い」[4]小林責・西哲生・羽田昶『能楽大事典』(筑摩書房、2012年)「平岩流」の項。ものだったという。

平岩勘七家も白極善兵衛家同様、仙台藩に抱えられつつも、代々京都に住んでいた。親好の弟・平岩加兵衛但親は寛永7年(1630)に尾張藩に、また弟子の山本甚右衛門も慶安2年(1649)加賀藩に抱えられ、平岩流は幕末まで有力三藩をまたいで活動していた。

先に白極言次の箇所にて引用した『学びの鏡』[5]仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編9』(2008年)所収資料2による。は、歴代藩主やその家族の指導にあたった家臣たちの名を記したものであるが、「貞山君(伊達政宗)御学被遊候御芸道」として、白極言次と平岩親好の名が記されている。政宗が両名に大鼓と笛を習っていたとの意味である。

太鼓や謡とは異なり、政宗が大鼓や笛を演奏した記録は管見には入っていないが、能に深い理解を示し、能以外にも広く諸芸に通じた政宗である。十分にあり得るであろう。また先に述べたように『学びの鏡』が伊達家伝来の資料に基づくらしいことからも、信用して良いのではないだろうか。

人前で披露はせずとも、稽古のみ行っていた可能性もあるだろう。言次や親好の年齢・経歴から、政宗が彼らに習ったのは江戸時代に入ってからかと思われる。

この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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