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三田の節分は“鬼は内” 九鬼家と節分『蕉斎筆記』『甲子夜話』より

鬼の面をかけた男性

節分の豆まきの掛け声は、“鬼は外、福は内”というのが一般的です。しかし、三田では“鬼は内”という方が正しいのだそうです。

といいますのも、江戸時代、三田藩を収めた領主は「九鬼」家。お殿様の名字に“鬼”の文字が入っています。ですから“鬼は外”というと、お殿様、出ていけ……という意味になってしまいかねない。それは大問題ですから、三田では“鬼は内、福は内”というようになった、とされています。

この話、どれぐらい古いのだろうか、と前から気になっていたのですが、偶然ながら、江戸時代中~後期の儒学者・平賀蕉斎の随筆『蕉斎筆記』2巻に書かれているのを見つけました。以下に現代語で大意を紹介します。

『蕉斎筆記』の三田藩九鬼家“鬼は内”

九鬼長門守様[1]「長門守」は九鬼家宗家の当主が多く名乗った官途名。『蕉斎筆記』の自跋にある年記・寛政12年[1800]から推測して九代藩主・九鬼隆張か。の儀式で、節分の豆まき[2]なお、豆を“はやす”という表現について別記事を参照。の際、“福は内、鬼は内”ということだ。九鬼の姓に“鬼”の文字があるからであろう。

それが本当かどうか、長い間分からなかったのだが、この夏、九鬼家の城下町である摂津国三田の医者、内藤良白という人が、長崎までやってきた際、私を訪ねてきた。会って話をする中で、“鬼は内”の話に尋ねたところ、「間違いありません。百姓や町人はかまわないのですが、御家中のお武家さまはみんな“鬼は内”と唱えます」といった。

九鬼家のご先祖さまが、とても勇気のある人だったので、九鬼という名字になったとのことだ。今のお殿さまにまで代々、力の強いお家で、今のご隠居さま[3]三田藩八代藩主・九鬼隆邑か。なお、Wikipediaによると隆邑は起倒流柔術の継承者でもあったらしい。も、碁盤の隅を打つと、周囲の燈火が消えるほどだとか。

また江戸で年越しの夜、お殿さまお一人だけでお座敷に入ることがある。その時、お側に仕える小姓の一人が、勇気のある者で、「他人が行っているところで、自分に行けぬ場所はない」と豪語して、長門守様の後から、そのお座敷に入ったところ、たちまち「あっ」と一声叫んだか思うと、行方知らずになったとか。

お座敷の中で儀式がいろいろあるなど、良伯[4]先には“良白”と記され、表記ゆれがある。は語った。疫病神避けのまじないに“蘇民将来子孫之家”という護符を用いるのも、この九鬼の家から出たのが最初だったという。

以上が、『蕉斎筆記』に記された、三田藩九鬼家での“鬼は内”に関する話です。小姓が行方不明になったあたりはホラーテイストもあり、蘇民将来の札の大元とするなど、興味深い記述となっています。確認できるよう、下に原文を掲載しておきます

『甲子夜話』にみえる九鬼家の節分

九鬼家の節分で“鬼は内”と言ったことは、当時から変わった例として知られていたらしく、肥前国平戸藩主だった松浦静山[5]平戸藩九代藩主。本名は清。静山は号。の随筆『甲子夜話』にも記されています。

しかも、静山が聞いたのは「節分の夜に、九鬼家の当主が暗い部屋の中に座っていると、鬼の姿をした客がやってきて、向かって座る。この時に、小石を水に入れたものを吸い物として出すと、サクサクという音がする[6]食べる音だろうか。。人には見えない」……こんな話でした。

『蕉斎筆記』に“年越の夜、長門守様計御一人一間へ入らせらる”とあった話が、他では中で鬼と向き合うものとして噂されていたことが分かります。

その噂について、静山は大名同士である利点を生かして、三田藩十代藩主・九鬼隆国に直接確認します。

すると、隆国はその噂を否定した上で「当家では、主人が恵方に向かって座って、歳男が豆を持ち、通常通り豆を打ちます。しかし、掛け声が変わっていて、まず主人に向かって“鬼は内、福は内、富は内”と豆を打った後、次の間を打つ時には“福は内、鬼は内”と唱えます。ヒイラギやイワシの頭などは使いません」との答えでした。

松浦静山は怪奇な話が聞けると期待していたのかもしれませんが、掛け声以外は、いたって普通の節分だったようです。一方で、山伏の家系などに祖霊を鬼とする一族があることを根拠に、九鬼家もこの逸話から祖霊を鬼として祀っていた一族だとする説もあります[7]五来重『宗教歳時記』角川書店、2010年。。このあたりはいろいろ考えると面白そうですね。こちらも確認できるよう下に原文を掲載します

『蕉斎筆記』三田九鬼家“鬼は内”原文

九鬼長門守様の儀式に、節分の夜豆をはやすに、“福は内、鬼は内”といふとかや、九鬼の鬼の字の有ゆへに、諸人云伝へたり、

いまだ虚実もしらざりしに、当夏九鬼の城下、摂州三田の医者内藤良白と云もの、長崎迄遍歴して我を訪ひ来り、咄しの内に此事を尋ければ、それに相違なく、百姓町人はかまはねども、御家中に至迄鬼は内也と唱けると也、

御先祖あまり勇気なる人故、九鬼と唱たる苗字也との事也、今に至るまで代々力量にて、当時の御隠居も碁盤の隅を挙て、燈火を打消給ふ程也とかや、

又江戸にても年越の夜、長門守様計御一人一間へ入らせらる事有、しかるに御側小姓の内一人、甚勇気成者にて、人の行所へ行れぬと云事はなしとて、長門守様の跡よりその一間へ入けるに、忽あっと一声叫びて行衛もしれず成しとかや、

都而すべて御儀式に色々の事有となん、良伯の咄し也、疫神のまじなひに蘇民将来子孫之家といふ札は、此九鬼の家より出るを第一とすといふ、[8]『百家随筆』3(国書刊行会、1918年)による。

『甲子夜話』三田九鬼家“鬼は内”原文

先年のことなり。御城にて、予、九鬼和泉守いづみのかみ隆国とふには、

世に云ふ、貴家にては節分の夜、主人闇室に坐せば、鬼形の賓来りて対座す。小石を水に入れ、吸物に出すに、さく々として音あり、人目には見えずと。このことありやといひしに、

答に、拙家かつくだんのことなし。節分の夜は、主人恵方に向ひ坐につけば、歳男豆を持出、尋常の如くうつなり。

但世と異なるは、其唱を、鬼は内、福は内、富は内といふ。是は上の間の主人の坐せし所にて言て、豆を主人にうちつくるなり。次の間をうつには、鬼は内、福は内、鬼は内と唱ふ。此余、歳越の門戸に挟すひら木、鰯の頭など、我家には用ひずとなり。これも亦一奇なり。[9]東洋文庫306 中村幸彦・中野三敏/校訂 松浦静山『甲子夜話』1(平凡社、1977年)による。

脚注

脚注
^1「長門守」は九鬼家宗家の当主が多く名乗った官途名。『蕉斎筆記』の自跋にある年記・寛政12年[1800]から推測して九代藩主・九鬼隆張か。
^2なお、豆を“はやす”という表現について別記事を参照。
^3三田藩八代藩主・九鬼隆邑か。なお、Wikipediaによると隆邑は起倒流柔術の継承者でもあったらしい。
^4先には“良白”と記され、表記ゆれがある。
^5平戸藩九代藩主。本名は清。静山は号。
^6食べる音だろうか。
^7五来重『宗教歳時記』角川書店、2010年。
^8『百家随筆』3(国書刊行会、1918年)による。
^9東洋文庫306 中村幸彦・中野三敏/校訂 松浦静山『甲子夜話』1(平凡社、1977年)による。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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