三田藩三代藩主・九鬼隆仲の実家、鳥取藩池田家と能楽

三田藩主の九鬼家当主には、残念ながら、若くして亡くなる方が多かったようです。三田藩の初代藩主・九鬼守隆は33歳。その息子で、二代藩主の隆昌(たかまさ)も23歳で没し、そこで九鬼家の直系の血筋は絶えてしまいました。
代わって、隆昌の正室の実家・鳥取藩池田家から婿養子として入ったのが、三代藩主の隆仲(のち隆律)です。
この隆仲の「隆」は九鬼家に代々伝わる通字、「仲」は実父の池田光仲から与えられた字で、隆仲が、養家と実家の両方を意識していたことが名前から分かります。
さて、隆仲の実父である池田光仲は、鳥取藩32万石の初代藩主。姫路城を建てたことで有名な池田輝政の孫ですが、一方で、母方では徳川家康の曽孫でした[1]池田光仲の父・忠雄の母が家康の次女・督姫。。
その関わりから、光仲は、鳥取に家康を祀る東照宮を造営し、その落成の際には、法楽の能・狂言を催しています。また、藩で多くの能役者を抱えるなど、能を非常に好んでいたようです。
光仲の能好みは子孫にも影響したらしく、鳥取藩二代藩主・池田綱清(九鬼隆仲の実兄)も能好みとして知られていました。鳥取藩三代藩主の吉泰にいたっては、お抱え能役者の数を一気に倍に増やすほどの「能狂い」でした。
残念ながら九鬼隆仲自身が能を演じたとか、好んだという記録は未だ確認できていませんが、能を好む家風である鳥取藩池田家の中で生まれ育ったことで、隆仲にも当然、能の素養はあったことでしょう。
隆仲自身と能との繋がりを示す記録としては、仙台藩の歴史書『伊達治家記録』があります。寛文12年(1672)から延宝5年(1677)にかけて、仙台藩江戸上屋敷での能や狂言の上演の際に、隆仲は客としてたびたび呼ばれています。
大名同士の饗応の場の中に能や狂言があったと考えるべきで、決して能・狂言がメインであったわけではないでしょうが、中には招待客の最初に「九鬼和泉守殿」と隆仲のことが記されている記事もあって、仙台藩と隆仲が親しい時期があったのかと推測してしまうところもあります。
特に寛文12年(1672)6月16日に仙台藩江戸上屋敷で催された囃子(舞囃子?)の記録では、「因幡侍従綱清朝臣」(池田綱清)と、「九鬼和泉守殿」(九鬼隆仲)が並んで記されています。
違う藩の藩主となった実の兄弟が、久しぶりに会って、囃子を見ながらどんなことを話したのだろう、と想像すると楽しくなってしまいます。
脚注
^1 | 池田光仲の父・忠雄の母が家康の次女・督姫。 |
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