投稿日:

【仙台藩伊達家の能1】スペインの探検家も見た 関ヶ原合戦後の仙台の能

仙台城本丸の伊達政宗騎馬像

関ヶ原の戦いの後、政治の実権は徳川家へと移り、江戸幕府が開かれる。

そんな中、伊達政宗は徳川家康の許可を得て、居城を岩出山から仙台に移した。『伊達治家記録』慶長5年(1600)12月24日には「公、千代城ヘ御出、御普請御縄張始アリ。公千代城へ文字ヲ仙台ト改ラル」とあり、それまで「千代」であった土地の名前を「仙台」に改めたことが記されている。続いて記録には「晩、御普請初ノ祝儀、御能五番アリ」とあり、《高砂》《田村》《野宮》《養老》《猩々》の能が催された。「仙台」の歴史の最初に、能があったと言ってもいいだろう。

能楽の中心たる大和猿楽四座は、秀吉の没後もその恩顧に報いるため、秀吉が祀られた豊国神社の祭礼能を行っていた。特に徳川美術館蔵『豊国祭礼図屏風』に描かれている慶長9年(1604)の祭礼能は、秀吉の七回忌を記念して行われた特に盛大なもので、四座全ての大夫が立合で舞った《翁》では16丁の小鼓が並んだほか、四座それぞれが新作能の上演も行った。

しかし慶長14年(1609)、四座の能役者たちに対して、徳川家康が大坂城ではなく駿府城へ詰めるよう命令を出したころから、豊国神社での演能は下火となる。そして慶長20年(1615)、大坂夏の陣での豊臣家が滅亡すると、豊国神社も破却され、能楽の保護者は完全に徳川家へと移行した。

能楽を取り巻く環境が変わりつつあった慶長16年(1611)、政宗はスペインの探検家セバスティアン・ビスカイノを仙台に迎えており、この時にも能が上演されたらしい。ビスカイノの『旅行航海報告書』に以下のように記されている。

その前の金曜日には、王と司令官は顧問官であり秘書である人の家に招かれ、観劇と食事を馳走になった。それは朝の一〇時から夕方五時まで続いた。劇は歴史物だったが、戦(イクサ)の話やある王の姫の話などで、アラゴン王の話にかなり似ている。[1]フアン・ヒル著、平山篤子訳『イダルゴとサムライ―16・17世紀のイスパニアと日本』(法政大学出版局、2000年)所収「セバスティアン・ビスカイノ旅行航海報告書」(370~371頁)。なお「既に人形と音楽で演じられる『浄瑠璃』だった可能性もあるが、『能』のようである」との注釈がある。)

「司令官」はビスカイノ、「王」は政宗である。この記録について『宮城県史』は「劇というのは時間から見て五番ぐらいの能であろう。戦争及び一王の女の物語とあるのは明かに修羅物と鬘物を指している」[2]『宮城県史14 文学芸能』(宮城県史刊行会、1958年)560頁。と述べている。しかし、当時の演能時間は現在の6~7割程度であったと推定されている[3]『岩波講座 能・狂言 I能楽の歴史』(岩波書店、1987年)「二 能の変遷」能時間の推移による。ことから演じられた番数はより多かっただろうし、「戦争」と記されているのも、修羅能に限定せず、大勢の役者が斬組を見せる《正尊》《烏帽子折》《忠信》などの現在物の演目であった可能性もあろう。

なお「顧問官であり秘書である人の家」について、『宮城県史』は「片平丁の国老茂庭石見延元の邸であろう」と記している。「延元」とは、政宗の重臣(評定役)であった茂庭綱元の名を、綱元の没後、将軍徳川家綱の諱を憚って記した別名である。『宮城県史』が「延元」と記すことは、推定の根拠となった資料の存在をうかがわせるが、残念ながら明記されていない。『伊達治家記録』に見える慶長年間の仙台における能の記録が、仙台城を除くと、専ら綱元宅であるためであろうか。

なお『伊達治家記録』の能の記録の内、何例かは綱元が守り役をつとめていた政宗の五男・伊達宗綱に関わる記録である。慶長18年8月12日には、政宗が綱元宅に御成して宗綱(当時・卯松丸)の能を見ている。また翌慶長19年2月10日の政宗御成では宗綱(この時には元服が済み「摂津殿」)だけではなく、六男・宗信(吉松丸)、七男・宗高(長松丸)が共に能を演じている。

どうも政宗は国元では子どもたちの能を見るのを楽しみにしていたようである。

また別に慶長年間と見られる、政宗の能役者に関する指示の書状が綱元宛に送られている[4]『仙台市史 資料編9 仙台藩の文学芸能』(仙台市、2008年)附録DVD収録PDFファイルである「仙台藩演能記録」には、慶長年間の記録として「二十六日付茂庭綱元宛伊達政宗書状(個人蔵)」「茂庭綱元宛伊達政宗書状(所蔵者不明)」「七月二十八日付茂庭綱元宛伊達政宗書状(仙台市博物館蔵伊達家コレクション)」の3通を挙げる。。宗綱に関わらない部分でも、この頃には片倉景綱に代わって、茂庭綱元が能の差配を行っていたのだろうか。

脚注

脚注
^1フアン・ヒル著、平山篤子訳『イダルゴとサムライ―16・17世紀のイスパニアと日本』(法政大学出版局、2000年)所収「セバスティアン・ビスカイノ旅行航海報告書」(370~371頁)。なお「既に人形と音楽で演じられる『浄瑠璃』だった可能性もあるが、『能』のようである」との注釈がある。)
^2『宮城県史14 文学芸能』(宮城県史刊行会、1958年)560頁。
^3『岩波講座 能・狂言 I能楽の歴史』(岩波書店、1987年)「二 能の変遷」能時間の推移による。
^4『仙台市史 資料編9 仙台藩の文学芸能』(仙台市、2008年)附録DVD収録PDFファイルである「仙台藩演能記録」には、慶長年間の記録として「二十六日付茂庭綱元宛伊達政宗書状(個人蔵)」「茂庭綱元宛伊達政宗書状(所蔵者不明)」「七月二十八日付茂庭綱元宛伊達政宗書状(仙台市博物館蔵伊達家コレクション)」の3通を挙げる。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

この記事へのコメントは現在受け付けていません。