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【戦国伊達家の能3】上方や越前の能役者たちが出入りした米沢伊達家

後に奥州最大の大名となる伊達政宗は、若い頃から能に深く親しんでいた。政宗が家督を継いだ天正12年(1584)には「乱舞始」「謡始」が伊達家の年中行事となっていたことは先に述べたが、具体的な記録は散逸してしまったのか、確認できるのは3年後の天正15年(1587)からである。

しかし、「仙台藩演能記録」[1]『仙台市史 資料編9 仙台藩の文学芸能』(仙台市、2008年)附録DVD収録PDFファイル。によると、この年だけで実に27件、翌天正16年(1588)も22件の能楽に関する記録が見え、政宗は大いに乱舞、つまり能を楽しんでいたことがわかる。その内、何件かに「小十郎かた」と見え、輝宗の代には遠藤基信が担当していた能の差配を、片倉小十郎景綱が受け継いでいたらしい。

記録の中には『伊達治家記録』天正15年5月17日条「矢内和泉宅ニ於テ能ノ御稽古初アリ」との記録がある。後に述べるが、それ以前にも政宗が太鼓や謡を行っている記録があるため、具体的な意味はよく分からない。あるいは『近代四座役者目録』における「能」と同じ用法[2]前回連載註9参照。で、能のシテを演じるための稽古はこの時が初めだったのかもしれない。

天正15年には、能役者の名前が見える記事もある。1月14日の乱舞始や4月3日の竜宝寺[3]伊達家が代々崇敬した陸奥国伊達郡・梁川八幡神社の別当寺。での演能に見える「神子大夫」「役者清水」「笹屋」、3月5日に御前へ召し出されて以来、5月28日の明神堂[4]現在の山形県米沢市の白子神社とされる。まで名前が見える「深見父子」などである。

これらの中には、後に述べるように伊達家の家臣である者もいるが[5]坂田啓編『私本仙台藩士事典(増補版)』(2001年)にて、伊達家臣の多くは確認できる。、前回言及した堀池父子を含め、このころの伊達家には複数の上方の能役者が呼び寄せられて、能や囃子を演じていたのである。

越前猿楽・神子大夫と獅子の舞

この内、ある程度素姓が分かる役者としては神子大夫がいる。『近代四座役者目録』[6]『近代四座役者目録』の引用は、田中允編『能楽史料第六編 校本四座役者目録』(わんや書店、1975年)による。に以下のように記されている。

越前ノ神子太夫 八郎時代也。獅子ヲサイサイシタル者也。獅子ノ仕ヤウ、ムサトシタル事ト也。能ハ下手ト也。越前ノ成田、獅子ノ笛ニ付キ、神子太夫ヲサシコロシ、加賀ヘ走リ、タスカル。

神子大夫は越前の役者で、豊臣秀吉の絶大な庇護を受け、能界を代表した名手・金春八郎安照(禅曲、1549~1621)と同時代の人物であった。

「獅子」の舞は、現代の能において最も身体能力を必要とする演技である。この点は戦国時代の能においても同様と考えられ、それを再々演じたという神子大夫は、体捌きの切れる役者であったかと推測される。

「獅子」は三世観世大夫であった音阿弥が演じた記録はあるものの、九世観世身愛(黒雪)は「祖父親私共三代ともに獅子仕らざれば」と言った記録もあり[7]坂元雪鳥編『能楽史料1 御世話筋秘曲』わんや書店、1937年による。『御世話筋秘曲』は紀州藩の能役者・徳田徳左衛門隣忠が獅子に関する記事を記した能楽伝書。、室町末期以降、大和猿楽四座においては中絶した芸となっていた。

大和猿楽での復活は、江戸時代に入った寛永2年(1625)になってのことである。大御所徳川秀忠の所望を受けて、喜多流祖で当時の能の第一人者であった北七大夫長能が《石橋》として能に復活させて以来、ほかの流儀でも復活され、現在も人気曲として連綿と伝えられている[8]表章「能『石橋』の歴史的研究」(『観世』昭和40年8月号、檜書店、1965年)。

『役者目録』の筆は、神子大夫の獅子を「ムサトシタル事」、つまりいいかげんに演じたと記すが、これは越前猿楽である神子大夫が、観世座を差し置いて獅子を演じていたことに対する反感ではないかと思われる。

神子大夫の記事の最後、笛方・成田吹助と獅子のことで口論の末、刺し殺されたとの記事は、乱世とはいえ恐ろしい話である。

京都の手猿楽、深見と笹屋

また「深見父子」についても多少の経歴が判明する。まず『伊達治家記録』天正15年3月5日条に「晩、能ノ役者深見父子御前ヘ召出サル、頃日京都ヨリ来ル」とあり、深見は京都の役者であった。『近代四座役者目録』は「フカミ 是モ能ヲスル。下手也」としか記さないが、『伊達治家記録』天正15年4月3日条には能では重く扱われる老女物《卒都婆小町》を演じて政宗から褒美が与えられているので、それなりの実力者であったと考えて良いだろう。

能役者深見の京都での演能記録には

於二条秋之野道場、上下京之幼男手申楽令勧進云〻、大夫フカミ、十五六之者也。(『兼見卿記』[9]戦国時代から江戸時代初期にかけての公家で神道家・吉田兼見の日記。引用は斎木一馬・渋谷光広校注『史料纂集 兼見卿記第2』続群書類従完成会、1976年による。天正11年2月27日条)
禁中御能有之…(中略)…京衆之大夫也、上京虎屋立巴、下京フカミ甚吉等也。(『言経卿記』[10]安土桃山時代の公家・山科言経の日記。引用は東京大学史料編纂所編纂『大日本古記録 言経卿記10』岩波書店、1977年による。慶長5年11月9日条)

などがあり、深見が京都下京の手猿楽であり、後には禁中にも出入りしていたことが分かる。『兼見卿記』において「十五六」であったと記された「大夫フカミ」は、伊達家に参上した「深見父子」の「子」であろうか。

なお「深見道叱」が元和年間に、秋田藩佐竹氏に抱えられた記述が、佐竹家の家老・梅津政景の『梅津政景日記』に存在する[11]『梅津政景日記』元和4年7月23日条及び同8年6月15日条。。後述するが、当時の佐竹家当主・義宣も能数寄として知られた武将だった。

「笹屋」はよく分からないが、『治家日記』天正15年1月14日の乱舞始に「笹屋」の名が見え、天正16年12月23日には「笹屋甚三」が《船弁慶》と《是界》を舞ったとある。

「笹屋」が、神子大夫や深見のように、上方に本拠を置く役者とするならば、『お湯殿の上の日記』[12]御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記。引用は『続群書類従 補遺三 お湯殿の上の日記』改訂版、続群書類従完成会、1958年による。天正7年3月10日条に「さゝや十二郎のふ(能)するとなり」と記されて以降、同11年3月28日条まで名前が見える笹屋十二郎や、『三藐院記』[13]安土桃山時代・江戸初期の公家・近衛信尹の日記。引用は近衛通隆・名和修・橋本政宣校訂『史料纂集 三藐院記』続群書類従完成会、1975年による。文禄3年正月2日条に「篠屋宗二郎謡」と記された笹屋宗二郎と同族かと思われる。

特に笹屋十二郎については『お湯殿の上の日記』天正11年3月27日条では「うきなはさゝや十二郎あいに十二郎いとこのつるちよ」とあり、個人ではなく、一族で能を演じていた様子が判明する。なお、「うきな」とあるのは「おきな(翁)」の誤字であろう。

脚注

脚注
^1『仙台市史 資料編9 仙台藩の文学芸能』(仙台市、2008年)附録DVD収録PDFファイル。
^2前回連載註9参照。
^3伊達家が代々崇敬した陸奥国伊達郡・梁川八幡神社の別当寺。
^4現在の山形県米沢市の白子神社とされる。
^5坂田啓編『私本仙台藩士事典(増補版)』(2001年)にて、伊達家臣の多くは確認できる。
^6『近代四座役者目録』の引用は、田中允編『能楽史料第六編 校本四座役者目録』(わんや書店、1975年)による。
^7坂元雪鳥編『能楽史料1 御世話筋秘曲』わんや書店、1937年による。『御世話筋秘曲』は紀州藩の能役者・徳田徳左衛門隣忠が獅子に関する記事を記した能楽伝書。
^8表章「能『石橋』の歴史的研究」(『観世』昭和40年8月号、檜書店、1965年)。
^9戦国時代から江戸時代初期にかけての公家で神道家・吉田兼見の日記。引用は斎木一馬・渋谷光広校注『史料纂集 兼見卿記第2』続群書類従完成会、1976年による。
^10安土桃山時代の公家・山科言経の日記。引用は東京大学史料編纂所編纂『大日本古記録 言経卿記10』岩波書店、1977年による。
^11『梅津政景日記』元和4年7月23日条及び同8年6月15日条。
^12御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記。引用は『続群書類従 補遺三 お湯殿の上の日記』改訂版、続群書類従完成会、1958年による。
^13安土桃山時代・江戸初期の公家・近衛信尹の日記。引用は近衛通隆・名和修・橋本政宣校訂『史料纂集 三藐院記』続群書類従完成会、1975年による。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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