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【戦国伊達家の能2】使っていた謡本が現存 政宗の父・伊達輝宗と能

時代はくだって十六代・伊達輝宗(1544〜1585)の代になると、伊達家中ではかなり能に親しんでいた様子がうかがえる。「仙台藩演能記録」[1]『仙台市史 資料編9 仙台藩の文学芸能』(仙台市、2008年)附録DVD収録PDFファイル。によると、天正2年(1574)には『伊達輝宗日記』や江戸期に編纂された仙台藩の正史『伊達治家記録』にあわせて15件もの能や囃子(略式の演能)の記録が確認できる[2]数え方は「仙台藩演能記録」に従う。「仙台藩演能記録」には『伊達天正日記』天正15年5月6日条「こうわか舞」など、能とは別系の芸能も含まれているが、そのままとする。

注目すべきはその内5件までが「たくミ所」つまり、遠藤内匠基信の邸で行われているらしいことである。遠藤基信は、輝宗のもとで主に外交を担当した重臣である。その邸で能が行われることは、基信が能の差配も行っていた可能性を考えさせられる。

基信は連歌にも通じていたとされるが[3]小林清治「戦国期南奥の武士と芸能」(同編『中世南奥の地域権力と社会』所収、岩田書院、2001年)。、連歌も能も、文芸・芸能であると同時に、交誼を通して情報収集の手段としても使われていたのであろう。

また、この天正2年には伊達家の本拠である米沢城下において7月14日・15日と10月9日・10日と二度も各2日間の勧進能が催されている。また『伊達輝宗日記』には4月にも、勧進能だとは明記されていないが、「明神まへにてのふ候」と神社での演能を記している。伊達家のもと、当時の米沢ではかなり能が盛んであった様子をうかがうことができよう。

また天正4年かと推測される『蘆名止々斎(盛氏)書状』[4]東京帝国大学文学部史料編纂所『大日本古文書 家わけ3 伊達家文書之一』(東京帝国大学、1908年)所収資料299。宛先は伊達輝宗。には、蘆名盛氏が養子・盛隆の稽古のために伊達家より「加納弥兵衛」なる太鼓の師を招いていたことが記されている。

伊達家で太鼓というと、太鼓を能くしたという伊達政宗が思い起こされるが、この加藤弥兵衛、当時数え10歳になっていた伊達政宗の太鼓の師をも勤めていたのでないか、と想像するのはどうだろうか。ともかくも、当時の伊達家には他家にまで太鼓の指導をする人材がいたことを興味深く感じる。

また年は未詳(小林清治氏は天正末と推定)[5]既出「戦国期南奥の武士と芸能」359頁「花押型からみて天正末ころのものか」。だが、伊達輝宗の弟で石川家を継いだ石川昭光が、大塚与次郎なる人物宛に能道具を返却する旨の書状も存在する[6]『いわき市史8 原始・古代・中世資料』(1976年)所収根本重信氏所蔵文書4「石川昭光書状」。。この頃には伊達家・蘆名家・石川家と、家を越えて奥州の武将たちの間に能が普及していたことを示す例かと思われる。

輝宗は謡の稽古をしていたか

伊達輝宗は、能を見るだけではなく、自身も謡の稽古をしていたらしい。というのは、伊達家旧蔵の、天正4年の年記と「御屋形様之御本」に堀池次介忠清と子の弥次郎忠継が節付したとの奥書を持つ『堀池父子節付観世流謡本』が存在するためである[7]現在は法政大学能楽研究所蔵。「野上記念法政大学能楽研究所設立六十周年記念 収蔵資料展 みちのくの能・狂言」(国立能楽堂展示室、2012年12月12日~2013年1月31日)資料など。

堀池については、江戸初期の観世座小鼓方・観世庄右衛門元信が記した能役者の人物録『近代四座役者目録』(承応2年=1653年成立)[8]『近代四座役者目録』の引用は、田中允編『能楽史料第六編 校本四座役者目録』(わんや書店、1975年)による。に2ヶ所記されている。

ホリケ 是モ能ヲスル。京ノ者也。
 堀家宗活、是ハ、ワキ、観世小次郎弟子也。同宗室、是ハ能ヲスル。

堀池宗活 立巴ト兄弟也。観世小次郎元頼ニ脇ヲ習フ。下手也。宗活ガ子ヲバ、宗室ト云。能ヲスル。
 宗活ハ堀池ヘ養子ニ行ク。宗室子左兵衛子今左兵衛、是モ下手也。

「ホリケ」「堀家」「堀池」と姓の表記は異なるが、同じ役者のことを記していることは間違いない。両記事を合わせて読むと、京都の手猿楽(能役者の家出身ではない、素人能役者)であったこと、初代の宗活は観世座ワキ方・観世小次郎元頼の弟子でワキ役者であったらしいが、子の宗室の代からは「能ヲスル」つまりシテ(能の主役)を演じたこと[9]片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)77頁より。()内は引用者注記。
「(『四座役者目録』の)編者の用法に従えば、『能ヲスル』とか『能ヲ習フ』のは、これまた例外なしに『シテを勤める』ことであり、『シテの心得・技を稽古習得する』ことで、他のいかなる役を勤めることでもなければ、習うことでもない。脇方はワキヲスルのであり、囃子方は鼓打ちであり、笛吹きであって、能役者ではかったらしいのである。『能』の中心をなすものは大夫以外の何者でもない、というよりは大夫すなわち能とでもいうべき考え方をしているようである。」
、当時既に四代続いて活動していたことが分かる。

なお繰り返し「下手也」と記されているが、『近代四座役者目録』は編者の正統派意識と関連して、別系の能役者への評価が厳しいことが指摘されており、そのまま受け取ることはできない[10]既出『校本四座役者目録』解説、「江戸時代初期素人能役者考」など。

堀池については後、政宗の代になるが『伊達天正日記』天正16年(1588)1月に

御客人新田義綱殿御参候。御せうはん衆せきさい伊達碩斎宗澄さま・小梁川宗成殿・ますた増田宗繁殿・ほりけも罷出申候。横山けん兵衛大こ、さたけ助左衛門つゝミ、七右衛門はやし申され候。くれは呉服にて候。
御太鼓おいまつ老松あそはされ候。すかほ素顔にてたゝまいたし申候。御たいこせかい是界もあそはされ候。又おもてかけ面掛しねんこし自然居士さつせうせき殺生石せかい是界以上三番にて候。其上御めし出ニて候。(14日条)

せんほう懺法御さ候。そのうへほりけおやこ親子まちいて候て、御はやし御さ候。たつた龍田、御たいこあそばされ候。(18日条)[11]小林清治校注『伊達史料集(下)』(人物往来社、1967年)所収「伊達天正日記」による。

とあり、再び伊達家を訪れて能を演じている。「仙台藩演能記録」には記録の散逸のためか、天正3年から15年の間の記事が存在しないが、能役者・堀池は謡本の存在と合わせて考えると、輝宗の代からたびたび伊達家まで来演した馴染みの能役者であったと考えて良いだろう。

謡本は基本的に稽古のための本であるので[12]小林責・西哲生・羽田昶『能楽大事典』(筑摩書房、2012年)「謡本」の項「演劇の台本というよりは謡稽古のための譜本」「室町末期に謡が能から独立した音曲として普及、流行するにつれ、稽古本としての謡本が多く書写されるようになった」、そこから輝宗が謡の稽古を受けていたのではないか、と推測される。

なお、堀池は伊達家に出入りしていたころは観世流であったが、後に喜多流に流儀が変わり、京都在住のまま土佐藩山内家に抱えられた。堀池家は明治末に能楽の家としては絶えるが、その芸事は高林家に継承され、現在でも京都の喜多流の能楽師として活動している

伊達家中における「乱舞始」定着

また政宗の代に伊達家の奉行(家老)として財政をきりもりした鈴木和泉元信について、『伊達治家記録』元和6年(1620)6月2日の死去記事に「先祖家系及ビ姓不知、或ハ云ク米沢ノ市人ナリ、謡ヲ能クスルヲ以テ召出サル」とある。『人物叢書 伊達政宗』によると、出仕したのは輝宗の代だという。

鈴木元信は、元は京都の茶人だったとの説もあり、『伊達治家記録』も一説として記しているに過ぎないが、輝宗時代の伊達家における能楽愛好の様子を伝える記録のひとつと言えるであろう。

その後の伊達家における演能に関する記録は、前述の通り、しばらく見当たらない。その次に能に触れた記録が天正12年(1584)の末に輝宗自身が記した『正月仕置之事』である[13]既出『大日本古文書 家わけ3 伊達家文書之一』所収319。。これは政宗に家督を譲った輝宗が、当主として初めて正月を迎える息子に与えた伊達家の儀式書である。

その中の14日の条に「らんふはしめ」が見えている。この「らんふ(乱舞)」は能のことである。後に仙台藩では能の芸をもって仕える者たちを「乱舞衆」「乱舞方」と呼んだらしい。この『正月仕置之事』にも

もちこ大夫うたいはしめ候、馬出し候、らんふしゆきゃうけん狂言しゆ訖、弓とやくそくにて、三百つゝいたし候

とあり、「乱舞衆」の言葉が「狂言衆」と並んで使われている。「もちこ大夫」は能役者の名前だと思われるが、詳細は分からない。政宗晩年に仕えた小姓・木村宇右衛門が政宗の言行を記した『木村宇右衛門覚書』[14]以下『木村宇右衛門覚書』の引用は小井川百合子編『伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書』(新人物往来社、1997年)による。但し読みやすさを優先し、原文の文字に小井川氏が括弧書きで宛てた漢字を採用して表記を改めている。109段に、正月の儀式が記されているが、

扨二七日の御弔ハ十四日也。是を謡初になる。御吉例にて御役者に弓一挺ツヽ被下也。

とあり、謡初で能役者たちに弓を与えることは政宗晩年でも行われていた。

なお、『宮城県史14 文学芸能』(宮城県史刊行会、1958年)所収の三原良吉「能」[15]以下『宮城県史』と略称する。には、乱舞という言葉について「仙台藩では能の演技を『のふ』と称し、猿楽または散楽という語はなかった訳ではないが、あまり使っていない。この『のふ』即ち演技に対して、演技演奏する人を『乱舞』と称した」と記す。また「乱舞」という言葉には「らんぶ」「らっぷ」両用の読みがあるが、伊達家では専ら「らんぶ」と発音したとのことである。

話が少々脇にそれたが、輝宗の代の内には年中行事に組み入れられるほどに、伊達家に能は入り込んでいたのである。

脚注

脚注
^1『仙台市史 資料編9 仙台藩の文学芸能』(仙台市、2008年)附録DVD収録PDFファイル。
^2数え方は「仙台藩演能記録」に従う。「仙台藩演能記録」には『伊達天正日記』天正15年5月6日条「こうわか舞」など、能とは別系の芸能も含まれているが、そのままとする。
^3小林清治「戦国期南奥の武士と芸能」(同編『中世南奥の地域権力と社会』所収、岩田書院、2001年)。
^4東京帝国大学文学部史料編纂所『大日本古文書 家わけ3 伊達家文書之一』(東京帝国大学、1908年)所収資料299。宛先は伊達輝宗。
^5既出「戦国期南奥の武士と芸能」359頁「花押型からみて天正末ころのものか」。
^6『いわき市史8 原始・古代・中世資料』(1976年)所収根本重信氏所蔵文書4「石川昭光書状」。
^7現在は法政大学能楽研究所蔵。「野上記念法政大学能楽研究所設立六十周年記念 収蔵資料展 みちのくの能・狂言」(国立能楽堂展示室、2012年12月12日~2013年1月31日)資料など。
^8『近代四座役者目録』の引用は、田中允編『能楽史料第六編 校本四座役者目録』(わんや書店、1975年)による。
^9片桐登「江戸時代初期素人能役者考―『役者目録』を中心に―」(『能楽研究』3所収、法政大学能楽研究所、1977年)77頁より。()内は引用者注記。
「(『四座役者目録』の)編者の用法に従えば、『能ヲスル』とか『能ヲ習フ』のは、これまた例外なしに『シテを勤める』ことであり、『シテの心得・技を稽古習得する』ことで、他のいかなる役を勤めることでもなければ、習うことでもない。脇方はワキヲスルのであり、囃子方は鼓打ちであり、笛吹きであって、能役者ではかったらしいのである。『能』の中心をなすものは大夫以外の何者でもない、というよりは大夫すなわち能とでもいうべき考え方をしているようである。」
^10既出『校本四座役者目録』解説、「江戸時代初期素人能役者考」など。
^11小林清治校注『伊達史料集(下)』(人物往来社、1967年)所収「伊達天正日記」による。
^12小林責・西哲生・羽田昶『能楽大事典』(筑摩書房、2012年)「謡本」の項「演劇の台本というよりは謡稽古のための譜本」「室町末期に謡が能から独立した音曲として普及、流行するにつれ、稽古本としての謡本が多く書写されるようになった」
^13既出『大日本古文書 家わけ3 伊達家文書之一』所収319。
^14以下『木村宇右衛門覚書』の引用は小井川百合子編『伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書』(新人物往来社、1997年)による。但し読みやすさを優先し、原文の文字に小井川氏が括弧書きで宛てた漢字を採用して表記を改めている。
^15以下『宮城県史』と略称する。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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