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【仙台藩伊達家の能8】藤原定家の謡で号泣 伊達政宗の能に対する態度

畳

これまでに紹介してきた他にも、伊達政宗には能に関わるエピソードは多い。少々雑多にはなるが、一つずつ紹介していこう。

藤原定家時雨亭に感涙

『木村宇右衛門覚書』119段に

又茂庭周防所にて能有し時、「是ハ時雨の亭とて藤原の定家の卿立てをかせ給ひ年々歌をも詠しさせ給ふ古跡なり」と申けれバ、御涙を流し給ふは、日頃歌道に御心を寄られたる故ぞかしと人みな申あへり。[1]小井川百合子編『伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書』(新人物往来社、1997年)より。

とある。茂庭良元(周防)の邸にて能《定家》が上演された際に、ワキのセリフが時雨亭の説明に及ぶに至り、感動の涙を流したというのである。

伊達政宗は和歌に造詣が深く、関白・近衛信尋と深く交流し、和歌の添削を依頼していたことなどが知られている[2]『仙台市史 通史編3 近世1』(2001年)特論1「伊達政宗の教養」(佐藤憲一氏執筆)。。藤原定家は和歌史を代表する歌人である。伊達政宗は、藤原定家の手による『古今和歌集』写本を持っていたことも知られる[3]現・安藤積産合資会社蔵「古今和歌集〈藤原定家筆/〉」。重要文化財。。政宗はそれだけ定家に傾倒していた。そのために、能《定家》のセリフでも感極まってしまったのであろう。

乱舞(能楽)は饗応の具

『政宗記』巻11「政宗物僻事」では、政宗の能楽に対する姿勢が伺える記述がある。

惣じて何事によらず、或は珍物・名物、或は乱舞のかた、何れ成とも是は浮世にすぐれ、客などの馳走には、一廉ひとかどなるものなれば、何程にても其造作には構へ給はず。たとへば乱舞の方を申すに、笛太鼓ふえたいこ、或は諸職人に至る迄、名を呼ぶ程の上手なれば、必ず抱ひ給ふ。[4]小林清治校注『戦国史料叢書 伊達史料集 上』(人物往来社、1967年)所収「政宗記」による。

伊達政宗は和歌・連歌・狂歌・漢詩・書・茶の湯・香……と多趣味・多教養であり、しかもそれぞれをかなり高い水準でたしなんでいた[5]小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)191~200頁や、『仙台市史』「伊達政宗の教養」など。

政宗の乱舞(能楽)愛好もその一つであるのだが、これらの趣味・教養を特に「客抔の馳走」、つまり饗応の具として重視していたことが分かる。そのためには名が知られるような上手は必ず抱えると述べられており、先に紹介した三栖屋又作はその具体例であろう。似たようなことは『木村宇右衛門覚書』116段でも記されている。

大名の馳走にハ能か囃子の外ハなし。役者といふ物ハ無駄ものゝ様なれ共、人を馳走せんにハ持たで叶わぬ物そかし。それもことの欠けぬ様に過ぬを本とすとの給ふ。

饗応に必要なので仕方なく能役者を抱えているという書き方は、具体的な政宗の能楽愛好の様子とはそぐわず、そのまま信ずるには疑問を感じるが、政宗が能楽を大名相手(特に幕府の要職にあった譜代大名など)の饗応・外交の道具として重視していたことは事実であろう。思い返すと、米沢時代に触れた郡山合戦の後の催能も賓客の饗応のためであった。

桜井八右衛門など、家臣たちを能役者に仕立てていったことも、最終的な目的は饗応に用いることである。先に引用した『政宗記』の続きでは八右衛門に触れている。

去程に、桜井八右衛門とて譜代なりしを奈良の都の金春八郎に十四五ヶ年、大分の造作を以て付置給ひ、能の名人と成、今天下に其名を呼れけり。如此取立給ひ、役者彼是三万石余の入方なり。

衝撃的なのは「役者彼是三万石余の入方なり」との表現である。能役者関係の出費を合計すると三万石に達するという意味であろうか。少々大袈裟に過ぎるようにも思えるが、今まで見てきた政宗の能楽愛好ぶりからは、あり得ないとも言い切れない。

素人芸に対する政宗の視点

また『木村宇右衛門覚書』33段には、小歌や謡に対する政宗の談話が収められいる。

又友だちの交ハりに酒盛などして遊ぶとも、小歌など声を限りに節よく上手に歌ふハ見苦し。たとへ座敷の興に歌ふとも、如何にも節を覚へたるとも、しどろに歌いて人に笑ハれたるハよし。又謡などハ、一口謡ふ共口先にかけず、つよくはりかけ節の上げ下げハ忘るゝとも、拍子抜けぬやうに謡ふべし。知らずして手鼓はめに打つハ見苦し。今の謡ひ舞ひ遊ぶ中に、知らずハ口を時々動かしてもいよとの給ふ。

大意を取ると、「酒宴で小歌を披露するならば、上手に歌うよりも下手に歌って笑いを誘え」「謡は音の上げ下げにこだわるより、拍を外さないように」「よく知りもしないのに、手を鼓のように打つのは見苦しい」「謡を知らなくとも口は動かしなさい[6]いわゆる「口パク」をしてでも、周囲に調子を合わせることを勧めたものか。」というところであろう。

政宗は玄人の芸に厳しい審美眼を以て当たった一方で、素人芸としては妙に上手ぶったものよりも、懸命につとめている姿を好んだようである。

脚注

脚注
^1小井川百合子編『伊達政宗言行録―木村宇右衛門覚書』(新人物往来社、1997年)より。
^2『仙台市史 通史編3 近世1』(2001年)特論1「伊達政宗の教養」(佐藤憲一氏執筆)。
^3現・安藤積産合資会社蔵「古今和歌集〈藤原定家筆/〉」。重要文化財。
^4小林清治校注『戦国史料叢書 伊達史料集 上』(人物往来社、1967年)所収「政宗記」による。
^5小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)191~200頁や、『仙台市史』「伊達政宗の教養」など。
^6いわゆる「口パク」をしてでも、周囲に調子を合わせることを勧めたものか。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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