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【戦国伊達家の能5】豊臣秀吉と前田利家が舞い、政宗が太鼓を打つ 桃山時代の政宗と能楽

名護屋城三の丸石垣

豊臣秀吉は、織田信長の麾下において取り立てられて以来、能役者とのつきあいはあったものの「武将としては、ごく平均的な愛好」[1]天野文雄『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(講談社、1997年)44ページ。を続けていた。しかし、朝鮮出兵のため、肥前名護屋にいた文禄2年(1592)正月ごろ、山崎の素人役者・暮松新九郎について稽古を始め、以後急速に能楽に対して耽溺した。

その熱中ぶりは、単に配下の大名たちの前で披露するのみに留まらなかった。まず、本願寺の坊官で能の名手だった下間少進仲孝や、以前述べた堀池宗活の兄弟でやはり京都の手猿楽であった虎屋立巴に、能の道具を揃え送るように朱印状を下し、また観世・金春・宝生・金剛の大和猿楽四座すべてを呼び寄せた。

さらに女能の「ちほ大夫」や当時広く演能活動を行っていた南都春日社の禰宜猿楽たち、さらに面打ちの角坊も名護屋に呼び寄せている。このように規模の大きな愛好ぶりは、まさに天下人ならでは、である。

常陸の大名・佐竹義宣も肥前名護屋に従軍していたが、その家臣・大和田重清の『大和田近江重清日記』には、義宣が秀吉主催の能に出かけ、鼓の稽古に行くなど、名護屋参陣の大名たちの間で、能や謡による交流が盛んであったことが記されている[2]前出『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』第二章「文禄二年肥前名護屋」。

義宣は、国元にいる和田安房守宛の書状でも、秀吉が毎日能を行っている影響で諸大名の陣中でも能・狂言・茶の湯が流行している様子を記し、その上で国元から大鼓・小鼓の胴や小鼓の皮・笛を送るように指示している[3]『茨城県史料 中世編IV』(茨城県、1991年)所収阿保文書62「佐竹義宣書状」。

これは義宣自身が能楽にも通じた数寄者であったこともあるが、文禄2年の肥前名護屋において能・狂言・茶の湯が大名同士の交流、外交の手段であったことをうかがわせる史料でもあろう。

伊達政宗も肥前名護屋、さらに朝鮮半島へと出陣している。政宗は文禄元年3月に京都を出発し、朝鮮へ出陣したのは翌2年3月であるから、同年正月から始まった秀吉の能への耽溺を、目の当たりにしたことであろう。政宗の肥前名護屋における能楽関係の記録は、残念ながら確認できていないが、秀吉とその周辺の影響を受けて、能への愛好をより深めたのではないだろうか。

その推測を助けるのが、「於朝鮮梁山書之、文禄二年五月二日」の奥書と自署のある政宗自筆『集謡』が存在することである。これは《西行桜》《頼政》《芭蕉》など24曲の謡いどころを集め記したもので、福岡藩士小河家に伝来した[4]福岡市博物館『NIPPON美の玉手箱 能のかたち』図録、2012年。。朝鮮の陣中という、およそ能にふさわしくはない場でも、謡を自ら記していた政宗は、やはり通り一遍の愛好ぶりとは、到底言うことはできない。

秀吉は朝鮮・明との講和が成って京都に戻ると、後陽成天皇の御前において、諸大名を引き連れ大がかりな禁中能を催した。残念ながら、そこに伊達政宗が出演していた様子は確認できない[5]『能に憑かれた権力者』第三章「文禄二年禁中能」。。さらに翌文禄3年、慶長元年(1596)にも秀吉は2度の禁中能を催したが、そちらも同様である。

しかし、やはりというか秀吉と政宗は能を通じて交流していた。『伊達治家記録』慶長元年冬、木幡山伏見城築城の視察に来た秀吉を、政宗が伏見の邸で饗応した際の記録である。

此冬、木幡山御普請ノ内、 公伏見御屋形ニ於テ、 殿下ヲ饗シ奉ラル、(中略)

御数寄屋ニ於テ御饗膳御茶差上ゲラル、加賀宰相利家卿羽柴筑前守等御相伴ナリ、数寄屋ヨリ御出、御書院ニ於テ、七五三ノ盛膳ヲ饗シ奉ラル、 殿下老松ノ切リヲ舞ヒ玉フ、 公御太鼓ヲ打チ玉ヘリ、御舞終テ、 殿下御扇ヲ利家卿ヘ授ラル、利家卿呉服ノ切リヲ舞ハル、 公此時御官位昇進仰出サレ、従四位下ニ叙セラレ、右近衛少将ニ任セラル、越前守如元御兼任ナリ

秀吉が《老松》のキリ[6]能の終曲部分の意味。現在は終曲前の一部分だけだが、この時代は後場全体である可能性が高い。を舞い、政宗がその太鼓を打った。秀吉は扇をそのまま、相伴していた前田利家に授け、利家は《呉服》のキリを舞った。政宗が太鼓を打っていることから、現在の舞囃子のような形であっただろう。

この時、政宗は官位昇進を希望し、従四位下右近衛少将に任じられた。豊臣時代において、確かに政宗は能を政治的に利用していたのである。

脚注

脚注
^1天野文雄『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』(講談社、1997年)44ページ。
^2前出『能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記』第二章「文禄二年肥前名護屋」。
^3『茨城県史料 中世編IV』(茨城県、1991年)所収阿保文書62「佐竹義宣書状」。
^4福岡市博物館『NIPPON美の玉手箱 能のかたち』図録、2012年。
^5『能に憑かれた権力者』第三章「文禄二年禁中能」。
^6能の終曲部分の意味。現在は終曲前の一部分だけだが、この時代は後場全体である可能性が高い。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」会員。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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