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三田藩と三田城(三田陣屋)

江戸時代、摂津三田藩(現在の兵庫県三田市)は、戦国時代には志摩の水軍として知られた九鬼家が治めていました。その拠点となったのは三田陣屋(三田城とも)。
現在の三田市立三田小学校の校門隣に「三田城跡」の石碑が建っているように、三田では専ら「三田城」と呼ばれます。しかし、九鬼家は長い間、城主とは認められない「無城」の家格だったため、城ではない「陣屋」と呼ぶ方が正式なようです。
しかし天保10年(1839)、九鬼家の家格が「城主格」に格上げされました。もっとも、あくまで「城主格」であって「城主」ではないので、三田陣屋が城になったわけではないのですが、それ以後は三田陣屋のことを「三田城」と称することが許され、地元・三田では三田城と呼ぶことが一般化したのではないでしょうか。
三田城の築城時期に関しては様々な説があり、はっきりは分かっていませんが、16世紀末に作られた車瀬城がその原型だといわれています。後に伊丹有岡城主の荒木村重の支配下となり、その家臣の荒木平太夫が城主をつとめました。そののち山崎堅家・有馬則頼・松平重直と城主が変わり、寛永10年(1633)に九鬼久隆が入って以後、明治維新まで九鬼家が代々城主として三田藩を治めました。
兵庫県立有馬高等学校のあたりには「古城(ふるしろ)」の地名があり、元はこちらが三田城の中心部だったようですが、九鬼家の時代には、現在の三田小学校のあたりに藩主の居館が置かれ、城の主要部となりました。
小学校校舎の地下には、台所跡が保存されているとのこと。直に見てみたいものです。