三田藩主九鬼家の菩提寺・心月院 白洲次郎・正子の墓も
三田市の西山の麓にある心月院は、白洲次郎と正子夫妻の墓所がある寺として知られていますが、本来は三田藩主九鬼家の菩提寺です。
そもそも寺の名前も、初代三田藩主・九鬼久隆の父で、九鬼家の鳥羽最後の城主であった九鬼守隆(1573-1632)の戒名「松嶽院殿心月善光大居士」から一部を取って名付けられたものです。つまり、久隆が父を鳥羽から移し葬るために創建されたことを表しています。
白洲家も、元々は三田藩の儒者の家柄だったため、心月院に墓があるのです。
白洲家の歴代で有名なのは、白洲次郎の祖父・白洲退蔵(1829-1891)。最後の三田藩主・九鬼隆義に大判事(家老相当)として抜擢され、藩政改革を推し進めました。
明治維新後、退蔵は旧藩主・隆義たちとともに志摩三商会という会社を作り、経済界へ進出します。このことが、孫の次郎の活動へつながる背景なのですね。
心月院は、位牌堂以外の本堂・経蔵・総門・山門・庫裡・書院・蔵などはすべて江戸時代以前の建物が残っています。特に、山門は桃山時代以来存在しているとされる古いもの。伝承では、関ヶ原の合戦後、当時の領主・有馬豊氏が豊臣家から譲り受けた有馬温泉御殿の遺構の一部だといわれています。
さすがに藩主九鬼家歴代の菩提所。本堂の中に九鬼家系図が掲げてありました。
本堂に向かって少し左側に行くと、歴代藩主の墓が集められています。
こちらが今回解説マンガの案内役になってもらった、十代藩主・九鬼隆国のお墓。
その向かいのあたりには隆国の「お祖父さま」、八大藩主・九鬼隆邑のお墓もありました。
藩主のお墓から軽く丘をあがったところに、白洲家の墓所もあり、その端に白洲次郎と正子のお墓もあります。白洲家は、三田藩の儒学者の家系なのです。
白洲次郎の祖父・白洲退蔵は、三田藩最後の藩主・九鬼隆義の抜擢を受け、大参事(家老相当)となり、幕末の動乱の時代に、藩政改革を行いました。明治維新後は、九鬼隆義以下の元三田藩士で作った会社「志摩三商会」社長や、横浜正金銀行頭取などをつとめています。
この退蔵の子・文平の次男が次郎です。
白洲次郎が昭和60年(1985)に没した時、妻の正子と子どもに残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあったそうです。それを受けて、現在残っている墓も、夫婦ともに表に梵字、裏に俗名が刻まれているだけで、戒名は刻まれていません。
なお、白洲正子は、若い頃から能を稽古し、梅若流の皆伝を許されたほどの人で、能楽に関する書籍も数多く著していますが、残念ながら三田との縁は、婚家の本籍地程度で、ほとんどないようです。
また、白洲正子のことについては別に書けたら良いなぁ…と思っております。