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幕府も恐れた?”海賊大将”九鬼家

現在の兵庫県三田市の大部分・摂津三田藩。江戸時代をほぼ通して治め続けた九鬼家は、元は志摩国(現在の三重県志摩半島の先端部)の水軍でした。

九鬼家の歴代の中でも、特に有名なのは九鬼嘉隆(1542〜1600)です。嘉隆は九鬼水軍を率いて、織田信長や豊臣秀吉に仕え、鳥羽3万5000石を領する大名となりました。「海賊大名」と呼ばれることもあります。

正直なところ、九鬼家を藩主として慕う三田市民としては「海賊」という言い方には少し抵抗はあります。しかし、海賊を軍事力として編成したのが「水軍」ですので、同じ意味として理解しています。

九鬼嘉隆の活躍の中でも最も有名なのは、信長と本願寺が戦った「石山合戦」において、鉄甲船を率いて毛利水軍を破ったことでしょう。それ以来、九鬼家は戦国最強の水軍として、日本の各地を転戦しました。豊臣秀吉による朝鮮出兵の時には、朝鮮にまで出兵して活躍しました。

また嘉隆の子である守隆は関ヶ原の合戦で東軍に付て活躍し、その功績によって加増され、5万6000石を領します。

しかし、その守隆が寛永9年(1632)に没すると、五男の久隆と、三男の隆季との家督争いが起きてしまいます。

この御家騒動には幕府の介入を招き、九鬼家は2つに割られて、久隆は3万6000石で摂津国三田へ、隆季は2万石で丹波国綾部へと移されることとなりました。以降、2つの九鬼家は幕末まで、三田と綾部の土地で続くことになります。

ここで気をつけたいのは、三田も綾部も、海に面していない内陸の土地だということです。つまり、九鬼水軍はその軍事力の源である海を奪われたのです。九鬼水軍の軍事力・海運力は、幕府にとって邪魔だったのでしょうね。九鬼家としては、まんまと家督争いを利用されてしまったわけです。

三田御池

三田陣屋(三田城)跡である三田小学校の裏手には、大きな池があります。これを三田御池とか大池などと呼ぶのですが、この池で、志摩にいた時代を忘れぬよう水軍の訓練を行なっていた、という言い伝えがあります。

実際には、この程度の広さの池で意味のある訓練が行えるとは到底思えないのですが、三田における九鬼家、そして水軍としての意識を考える上では面白い言い伝えだと感じています。

幕末の話ですが、元治元年(1864)、幕府が神戸に海軍操練所を設けると、三田藩はいち早く藩士の前田又三郎を参加させました。

最後の藩主である九鬼隆義が、西洋文明を積極的に取り入れる、先進性に富んだ人物であったこともありますが、九鬼家がなお「海の軍」であろうとする意識の現れかもしれない、とロマンを持って見るのも、あながちハズレではないのではないでしょうか。

三田御池
住所:兵庫県三田市屋敷町
アクセス:神戸電鉄三田線「三田本町」駅から徒歩16分
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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