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「九鬼家住宅の設計者」九鬼隆範と能楽の謡

三田市屋敷町に、2階に洋風のベランダを持つ、でも全体的には和風のお屋敷があり、かなりの存在感を持っています。これは「旧九鬼家住宅資料館」。三田藩の家老だった九鬼勘左衛門家の元屋敷です。

元屋敷といっても、平成7年までは実際に勘左衛門家の子孫の方がここで生活を暮らしていた、割と最近まで現役だったお屋敷です。

建築のことは詳しくありませんが、こういう建物を「擬洋風建築」というそうで。全国でも現存が珍しいということで、兵庫県重要有形文化財に指定されています。

この建物を設計したのは、明治期の勘左衛門家の当主だった九鬼隆範(1885-1908)です。この方、三田では専ら「リュウハン」と音読みで呼ばれるのですが、これは一種の敬意表現で、実際には「たかのり」だったんじゃないかなーと個人的には思っています。

九鬼隆範の第一の趣味「謡」

さて、この隆範は、幕府が神戸につくった海軍操練所に入所し、勝海舟・川本幸民などに師事。明治になってからは鉄道局・日本鉄道株式会社に勤務。主に測量の分野で活躍した方なのですが。

詳しい経歴については、ほかを見てもらうことにして。ここは隆範の第一の趣味が能楽の謡(謡曲)だったことを紹介させてもらいましょう。

そのことを語る資料は、隆範の次男・越賀隆治が昭和33年(1958)に語った内容を筆録した『五十回忌に際し 故九鬼隆範の思いで』です。以下に関係する部分のみ引用します。

別段此れと申して取り立てて申し上げる程のものも御座いませんが、特に指摘しますれば先ず第一に謡曲が好きでして可成やりよりました。

東京に居ります時分、宅へ藤波先生と言う先生が教えに参って居りました。而して日鉄時分は会社のお友達七八人とグループを作り月並会を持ち回りで行い時々宅へも当たりよりました。相当楽しみに致して居ったようです。

その頃私共は子供の時分であり学校に通っている時代ですからお座敷へは勿論出ませんが、私はその時分から可成好きでしたから奥の台所の方で聞いておりました。

三田に引き揚げてからは三田に謡曲のお連れが無いので甚だ寂しく感じておりました。その時分私は鉄道局の神戸保線事務所に転勤になって居りましたので時々私が三田へ帰った時謡曲の相手を致して居りました。

ある時三田の屋敷の士族連中で昔謡曲をやったと言われる方々、即ち岩根静蔵、佐野近蔵、畑織之丞 等の方々に集まって戴き、謡曲会を催したことも有りましたが、余り芳しくはありませんでしたので続きませんでした。

(中略)

毎年父の日、即ち十一月二十六日に最も好きであった菊の花を其れ(注・形見の花瓶)に生けて祭壇に作り写真を立てて茶菓を供え その霊前でお経の代わりに謡曲の熊野と羽衣の一節づつを謡うのを慣例にして居ります。

故人の供養に好きだった謡をうたう…素敵だな、と思います。

隆範が東京で師事した「藤波先生」はもしかしたら、今も東京で活躍されている藤波家の方かな…とも想像したのですが、計算すると藤波家初代よりも前になるようで、もう少し調べてみたいと思っています。

今は三田市が管理している九鬼勘左衛門家資料を見せていただいた際に、明治以降のものですが大量の謡本がありました。特に「乱曲」と呼ばれる高度な独吟専用曲も含まれていて、隆範は相当に入れ込んでいただろうことが分かります。

また、江戸時代末期に江戸で行われた弘化勧進能の番組の、明治期の復刻版も入っていて、これも能楽趣味の一環で集めたものだろうなぁと、勝手な親近感をいだいているところです。

旧九鬼家住宅資料館(旧九鬼勘左衛門屋敷)
住所:兵庫県三田市屋敷町7-35
アクセス:JR宝塚線・神戸電鉄三田線「三田」駅、神戸電鉄三田線「三田本町」駅から徒歩12分

この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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