《弱法師》ゆかりとされる古墳「俊徳丸鏡塚」
先日、能《弱法師》のことを調べるため大阪府の八尾市の図書館を訪ねました。八尾市といえば先日書きました通り「高安能未来継承事業推進協議会」があり、地域と能楽を結びつける活動の先進地です。
さて、その帰り、ただ図書館だけでは寂しいと、能《弱法師》の主人公・俊徳丸の墓とも屋敷跡ともいわれる「俊徳丸鏡塚古墳」を訪ねました。近畿日本鉄道(近鉄)信貴線の「服部川」駅で電車を降りて、そこから坂を登って徒歩7分ぐらいで到着します。
能《弱法師》はこんなセリフから始まります。
左衛門尉通俊の、その追い出してしまった子。彼が俊徳丸です。この服部川を含む八尾市の東部地域を「高安」と呼ぶのです。
この「俊徳丸鏡塚古墳」は実際には6世紀ごろの横穴式石室の古墳とのこと。このあたりは古墳の多い地域で、「高安古墳群」と呼ばれているそうです。古代から力のある豪族が多くいた地域なのでしょう。
この古墳を俊徳丸の旧跡とする記述は、江戸時代前期の延宝7年(1679)に刊行された『河内鑑名所記』にあらわれます。文中に「新徳丸」とあり、現代とは表記が少し違いますが、このころにはすでに俊徳丸伝説と結び付けられていたことが分かります。
狂哥 良玄
水かねにまかふ草葉の露見れハ新徳丸の鏡つかかな
一方で、50年ほど後の享保20年(1735)に刊行された『河内志』には
俗云真徳麻呂旧跡 事見二与呂法師曲詞一
或曰女嬬従五位下百済王真徳墓 延暦中人
とあり、《弱法師(与呂法師)》の俊徳丸(真徳麻呂)ゆかりという説と一緒に、百済王真徳という渡来系氏族の女性の墓だとする異説も掲載されています。
この鏡塚について、百済王真徳のことを書くのは『河内志』と、それを受けたらしい『河内名所図会』(享和元年=1801年刊行)ぐらいです。
江戸時代になって学問が進んだ結果「古墳だと、俊徳丸の時代には古すぎる」という感覚で、古い時代の史書で「しんとく」にあたる人物を探したのではないだろうか、などと推測しています。[2]なお、百済王真徳は歴史書『続日本紀』の延暦3年(784)2月辛巳条に名前が記されている人物ですが、記載はこの記事だけなので、どういった人物なのかはよく分かりません。
俊徳丸鏡塚と大石順教尼
さて、実際に俊徳丸鏡塚古墳へ向かった感想ですが、地図がないと迷ったかと思います。それぐらい周囲の景色に溶け込んでいました。
周囲の草に覆われて分かりづらいのですが、石室の入口(羨道)の前にある石には「俊徳丸」と書かれていて、その隣は焼香台です。歌舞伎役者の実川延若(時期から言って二代目か)が戦前に寄進したものだそうです。
そのほか、松本幸四郎(七代目?)寄進の手水鉢もあって、その寄進には戦前このあたりに住んでいた大石順教尼の働きかけがあったらしいです。
大石順教尼は、明治38年(1905)におこった「堀江六人斬り事件」と呼ばれる事件のただ一人の生き残り、後に仏道へ入った人物です。嫉妬に狂った養父に日本刀で両腕を斬り落とされたという体験の持ち主で、障害者福祉の活動の先駆けともなりました。
…私は、大石順教尼のことは今回、俊徳丸鏡塚古墳のことを調べる中で初めて知りましたが、今回その凄まじい話に戦慄を覚えました。
そんな方だったからこそ、人為的な原因で盲目となった俊徳丸=弱法師の伝承地だったことに、思い入れがあったのでしょうか。
足利健二郎「俊徳丸鏡塚・箸塚・順教尼考」[3]『大阪春秋』81(大阪春秋社、1995年)所収。は、俊徳丸鏡塚に対する順教尼について、詳しく調べて書かれています。そこに書かれていた一節を以下に引用しておきます。
俊徳丸鏡塚古墳の石室です。残念ながら危険とのことで、中に入ることはできません。