車大歳神社の翁舞神事
すでに2ヶ月も前ですが、兵庫県神戸市須磨区車にある大歳神社で毎年1月14日に行われる翁舞神事(国指定重要無形民俗文化財)へ行ってきましたので、レポートを残しておきます。
これは能楽の《翁》と同系統の舞を奉納するものですが、能楽でも祈祷される「天下泰平」「国土安穏」「五穀豊穣」に加えて、さらに「家内安全」も祈るあたりが、地域の祭りという感じがして素敵です。
地元では「お面式」「能面の式」「お面の行事」さらには単に「お面」と呼ぶこともあるそうで、翁面を掛けることが重視されている様子がうかがえます。
この行事の始まりはよく分かっていません。江戸時代末期の資料が残っているので、少なくともその頃には行われていたようです。以後、太平洋戦争の時期には中断しますが、戦後復活し、今は氏子の方々が「翁舞保存会」を結成し、現在まで継承されています。
「車大歳神社の氏子地域の戸主は、この翁舞奉納の責任者である『ヤド』をつとめなければ隠居できない」なんて話もあって、地域でとても重視されている様子がうかがえます。
当日は19時ごろから神社で奉納が行われます。約1時間程度。以下、写真を中心に、能楽の《翁》との比較しながら書いています。
※なお、この日は持っていった携帯電話の電池が途中で切れてしまったため、後半の写真がありません。一部は前回行った2014年の際の写真も使用しています。
翁舞奉仕者の入場
翁舞奉仕者一行の先頭を進むのは、やはり面箱。やはり神体として扱われるのですね。ただし、面箱を捧げて持つのは千歳ではなくて、後見の役です。
『神戸の民俗芸能 車の翁舞と雨乞拍子踊編』(神戸市教育委員会、1976年)によると、この後見役が翁舞行事全体の責任者である「ヤド」なんだそうです。ただ、後の全員が座についた時の様子が、本で読んだものと、今行われているものに違いがありましたので、この資料が刊行されてからの40年の間に、少しずつ変化が起きている部分があるのかと想像しています。
写真では見えづらいですが、面箱やその中身を扱うときには、マスクのようなものをかけて扱っています。このあたりも恭しくて素敵だなと感じます。
なお、左側の狩衣姿の方は宮司さん。車大歳神社は、神戸市兵庫区の上祇園町にある祇園神社の宮司さんが兼務されているようです。宮司さんのお姿も風折烏帽子に狩衣なので、そのまま翁面つけたら翁が舞えそうだなと感じますね。つまり翁大夫の装束は、純粋な舞台衣装というよりは、神前に伺候する際の礼装としての姿なんでしょうね。
翁舞が始まるまで
翁舞の前には宮司さんによるお祓いが行われます。
続いてお盃。御神酒と洗米を口にします。露払(千歳)と三番叟は少年なので、ちょっと気になるのですが…。なお能楽の三番叟は黒い烏帽子ですが、車では歌舞伎や文楽と同じ「日の丸」の烏帽子なんですね。
面箱から面を取り出すのは、翁大夫の仕事です。ついつい能のイメージで、翁大夫がかける白色尉の面と、三番叟の黒色尉の面だけだと思っていたら、車の翁舞には「父尉」もあるので、もう一面「父尉面」も取り出されます。そして、三番叟の鈴。
面を扱う際には口に紙をくわえて行われます。
翁舞の詳細
準備が終了すると、謡が始まります。地謡は、扇を立てて謡うのは能楽と同じですね。翁大夫は閉じていても先が広がった扇(中啓)を、笏のように構えています。
最初は露払いの舞。能楽の《翁》では「千歳」にあたります。世阿弥が表した伝書にも「露払」とありますし、まさに翁大夫の露払を行う役なので、こちらが古い名称だと思います。
露払いの舞が終わると、翁大夫が面を掛けます。能楽の《翁》では面を掛けてから謡う「あげまきやとんどや」を、車の翁舞では面を掛けずに謡ってから、後見役のヤドの手を借りて掛けます。翁大夫が面を掛けるために下の向いて、ヤドが少し伸び上がって、上で紐を結ぶあたり面白いです。(能楽では、後見は面を掛ける人の後ろから紐を結びます)
なお、喜多慶治『兵庫県民俗芸能誌』(錦正社、1977年)では「あげまきや」で面をつけるとありました。刊行からの40年の間に変化したのでしょうか?
面を掛けると、翁大夫の舞。翁舞ですから、全体の中心となる舞です。最後のあたりに「天下泰平、国土安穏、五穀成就、今日のご祈祷なり」と謡い、能楽の《翁》に比べて、言葉が多いです。最後に「万歳楽」を何度も繰り返し、ヤドがそれぞれに「天下泰平!」「国土安穏!」「五穀成就!」「家内安全!」と囃子言葉のように声をかけているのがまた面白いです。
翁大夫の後は、三番叟の舞です。まずは面を掛けない「揉ノ段」。揉み出しで謡われる「おおさえおおさえ」の詞(コトバ)は残念ながら、ほとんど聞き取れませんでした。この車の翁舞では謡は朗々と歌い上げられるのですけれど、詞はつぶやく感じで発音されるようです。
また三番叟に入ると、3人いる小鼓の中の1人が、道具を大鼓に持ち替えるのも大変面白いです。大鼓担当の方は三番叟の隣に座る関係もあって、三番叟のお世話をする役も兼ねてました。
三番叟が揉ノ段を舞い終えると、黒色尉の面をかけるのに、翁大夫とヤドの二人がかりでお世話します。これだけを見ると、翁大夫よりも三番叟のほうがVIP待遇ですね。…というのは冗談で、想像するに三番叟をつとめるのが子どもなので、スムーズな進行のために、こういう形になったのだろうと想像します。
なお、翁大夫も含めて、面をかける時に烏帽子は一度外すのが車の翁舞の形です。能楽や、同じ民俗芸能の翁舞でも奈良豆比古神社では烏帽子をつけたまま面をかけます。こういう違いも興味深いです。
三番叟が面を掛けると、露払いと三番叟が問答をして鈴を渡します。この時、露払いと三番叟が向き合わずに、二人とも拝殿を向いて問答します。三番叟と露払の装束が基本的に同じものなんだ、というのもここで気付きました。紋付袴の上に水衣のようなものを羽織って、烏帽子が違うだけなんですね。
このあと、三番叟が鈴を持って舞う鈴ノ段があるのですが…写真が見当たらず。申し訳ありません。
三番叟の舞が終わると、今度は翁大夫が父尉の面を掛けて、父尉の舞へと進みます。この父尉の舞が演じられることが、現在、車の翁舞の最大の特徴となっています。
この「父尉」は古い《翁》にはあったとされるものですが、現在の能楽では演じられません。観世流や金春流には「父尉延命冠者」という小書がありますが、観世流は江戸中期の創作、金春流は近代に入ってから、別系統の資料に基づいて作られた比較的新しいものです。
しかし、「父尉」と対となるべき「延命冠者」は登場しないので、不思議といえば不思議です。もっとも江戸時代末の文久2年(1862)の台本には、延命冠者のセリフも記されているので、そのころには演じられていたものの、何らかの事情で失われてしまったのかと思われます。
しかし、それを除いても地域の方々が粛々と翁舞を奉納するお姿には尊いものを感じてなりません。