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故・五世野村万之丞さん

『心を映す仮面たちの世界』の中に、監修をされた故・五世野村万之丞(本名・耕介 1959年~2004年 享年44歳 八世野村万蔵を追贈)さんの、以下のような文章がありました。

演劇は決して「文字のストーリーを立体にしてお見せする」ものではなかったということである。豪華な衣装や仮面で飾られた役者たちが創り出す、非日常の空間にカルタシスを見出すという美学が、明治維新の頃までは「風流性」として日本人の中にあったと思われるのである。
「文学的ストーリーの立体的表現にあらざる」演劇こそ、私たちが本来持っていた演劇なのである。

とあり、その後は能『井筒』を例として続いていました。

確かに能や狂言にはそういう要素があると思います。

あらすじにしてしまうと、面白さや魅力が欠片すら失せてしまう能や狂言の多いことは前から感じていましたが、生身の人間が演じて作り出すその「場」の力、といったものが能や狂言の魅力の大切な要素なんだと思うのです。

だからこそ、200番前後の古典演目を繰り返し上演していても魅力は尽きませんし、ストーリー展開がほとんどない一部の「仕舞」や「舞囃子」に感動してしまうこともあるのだと思います。

逆に、演者によっては見てられないほどに退屈なものにもなり得る原因も、能や狂言のそんな面によるのではないでしょうか。

立ち方(シテ方・ワキ方・狂言方)はともかく、例えば、私が稽古を受けている大鼓など、音は小さい「ドン」と大きな「チョン」の2種類、掛け声は「ヤ」「ハ」「ヨーイ」「イヤ」の4種類しかないわけで、それを八拍子の中のどこに打ち込むかの違いしかない……とも言える単純な構造の音楽です。

それが時に感動を与えるのは、生身の人間が作り出す「力」のためでしょう。それは技術も大切ながら、それよりも芸に対する姿勢だとか、かける気合だとか、そんなところから醸し出されると思うのです。

私のような素人と、プロの最も違う部分が、そういう「力」です。少なくとも、記憶力に頼るような打ち方・演技では、そういう「力」は出ません。

それは大鼓方に限られることではなく、能全体に通じるでしょう。

野村万之丞さんの最初の文章を読んだときに、能や狂言のそんな部分を、分かりやすく言葉にできる方だったのではないかと感じました。残念ながら、万之丞さんの生前の活動には触れることは叶いませんでした。しかし、残された著書には、そのスケールの大きさの一端を感じます。今さらながら、とても惜しく感じております。

この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」会員。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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