観世流・塩谷寅之介による塩田八幡宮・謡奉納額
先日、神戸市北区道場町塩田の塩田八幡宮に参りました。行政区分上は神戸市ですが、本殿のすぐ裏手の山が三田市との市境であり、神社も公式WEBサイトで「三田市隣接」と書いてらっしゃるほどです。
江戸時代後期の地誌『摂津名所図会』には、「塩田八幡 塩田村にあり。祭神石清水。享禄元年、別当僧谷之坊、玉蔵院神主大深太夫と倶に山州男山に詣し、こゝに勧請す」と、その由来が記されています。
現在のサイトの由緒書では、平安時代初期である大同年間(810頃)には「大歳神社」として存在したことを主張され、享禄元年(1528)の祭祀は、「再度石清水八幡宮より御宝体を拝受 奉斎し得た」とされています。
地域が近いだけに、歴史的にも三田とは関わりが深く、明暦3年(1657)の社殿再建の時には二代三田藩主・九鬼隆昌が寄進を行い、以後も九鬼家当主代々よりの寄進・奉納が続いたと由緒書に記されています。
そんな近くであるにも関わらず、行政区分が違うために、今回が初めて参りました。長い参道に真新しい灯篭が並び、更に150段の石段。とても立派な神社でした。
参拝のあと、御朱印をいただきましたが、そこに書かれた文字は「塩田厄神」。1月18日19日に厄除大祭が行われるようで、境内でもその準備が進められている様子でした。
昭和15年の謡奉納額
この神社を訪れたのは、実は謡の奉納額があるという話を聞いたからでした。御朱印をいただいたときにお尋ねしたところ、名誉宮司さまにご案内いただけることになりました。
両端に「皇紀貮千六百年」「昭和十五年四月三日」と記され、今から78年前、西暦でいえば1940年の謡奉納を記念した額です。内容はもちろん、額自体も非常に立派なものでした。
ご案内くださった名誉宮司さまは昭和10年のお生まれで、「5歳でしたけれど、この日のことは、おぼろ気に覚えてます」と仰っていました。その時のことを直にご覧になった方のお話をうかがうことができ、大変感動しました。
主催は「観世流 正楽会」。正楽会の会主「塩谷寅之介」はこの近くに住んでいたとのこと。番組の最初では《神歌》(《翁》の素謡)の翁大夫をつとめています。
名誉宮司さまのお話では、「額の最後に名前のある”塩谷”姓のお二人は寅之介の本家筋にあたる」とのことでしたので、塩谷家はこの塩田周辺の有力なお家で、分家の方が能楽師になって、近所の方々に謡や舞を教えてらしたのでしょうか。
また後援に「梅若流 神戸 清娯会/会主 田村長女」とあり、当時は観世流から分かれていた梅若流(現在は観世流の一部)の応援を得て開催された[1]清娯会会主・田村長女は、最初の《神歌》および素謡《弓八幡》のあと、舞囃子《高砂》を舞っている。ほか、八幡神社の社司・社掌、道場村長、道場村の帝国在郷軍人会会長、塩田区長、塩田組長などの名前が並んでおり、番組の内容にも舞囃子や番囃子があり、盛大な会であった様子がうかがえます。
名誉宮司さまの仰せによると「確か塩谷さんの後は養子さんが継がれたはず」とのことでした。[2]大阪の能楽師に、塩谷惠さんがいらっしゃいます。塩谷寅之介と同姓なので、2022年12月にお目にかかった際に、何か繋がりがないかお尋ねしてみましたが、塩谷さんは「私の家は代々大阪です」と仰せでした。同じ塩谷姓でも異なる家である様子です。(2023年1月6日追記)