三田博物館―九鬼隆一(帝国博物館総長・男爵)の提唱で開設
三田市屋敷町にある「三田ふるさと学習館」向かいには、あまり目立ちませんが「三田博物館」の石碑が置かれています。大正3年(1914)当時、帝国博物館総長だった九鬼隆一の提唱で開設された日本初の民間博物館が、かつてここにあったのです。
九鬼隆一は幕末の嘉永3年(1850)、三田藩士・星崎貞幹の次男として屋敷町に生まれています。後に三田藩主・九鬼隆義の推薦で、同じ九鬼家が藩主である丹波綾部藩の家老・九鬼隆周の養嗣子となりました。ですので三田出身ですが、身分的には綾部藩士でした。
明治維新の後、文部省に出仕して栄達し、特に美術行政でその手腕を発揮しました。「九鬼の文部省」といわれるほどに権勢を誇り、その功績を特に賞せられて男爵に叙せられますが、そのあたりの話はここでは省きます。
なお、九鬼隆一は「九鬼の文部省」という言葉に表されるように一般には「九鬼」と略されますが、三田では九鬼姓の有名人が他にもいるため、一般に「隆一」「隆一さん」「隆一男爵」などと呼ばれています。
九鬼隆一の「三田」への思い
昭和4年に刊行された『有馬郡誌』には「三田博物館」について以下のように記しています。
観覧日毎日。観覧料一人弐十銭。[1]ただし旧字体は新字体に直している。
上は『有馬郡誌』に掲載されていた、三田博物館の写真です。2階建ての立派な建物ですが、これは旧・有馬郡役所を利用したとのこと。九鬼隆一の収集品が陳列展示されていたといいますから、展示内容も充実していたことが想像されます。碑も隆一自身が揮毫しています。
日本初の民間博物館を、養家の出身地である綾部ではなく、三田に作ったことは、「自らの郷里はあくまで三田」だという、隆一の三田に対する熱い思いを感じます。隆一の墓も、三田藩士の墓所・心月院に残されています。
三田博物館の閉館
こうした隆一の熱い思いによって建てられた三田博物館ですが、隆一が昭和6年(1931)に没すると事実上閉館してしまいます。三田博物館の庭には隆一を顕彰する銅像も建てられていたそうですが、これも太平洋戦争中に供出されてしまい、当時を偲ぶものは、この石碑だけとなっています。
脚注
^1 | ただし旧字体は新字体に直している。 |
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