三木市志染町・御坂神社能舞台
山陽自動車道三木東インターを下車して5分ほど東に走ったところに、御坂神社があります。
平安時代中期の延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』神名帳の播磨国の部に「美嚢郡 一座 御坂神社」と記されている神社で、旧美濃郡(現在の兵庫県三木市と神戸市北区淡河町をあわせた地域)で古くから権威のあった神社のようです。
主祭神は
この御坂神社には、正面の鳥居と拝殿の間に能舞台があります。今の能舞台は平成19年(2007)に再建された新しいものですが、同じ場所に舞台が存在していました。見せていただいた写真と比べる限り、以前のものもほぼ同じ形をしていたようです。そして、明治4年(1871)の境内絵図にも同じ場所に能舞台があります。
また、江戸時代後期の文化4年(1807)に能舞台の再建をしたという棟札が残っていますので、少なくともそれ以前から存在していたようです。
能舞台の現状
この御坂神社の能舞台、鏡板はなく後方に吹き抜けになっており、地謡座はありません。屋根は入母屋造です。
そして能楽ファンとしては大変残念なことですが…橋掛と本舞台の付け根の部分が切り取られ、通路となっています。
能舞台は橋掛の構造上、どうしても人に大きく迂回させるという性格を持ちます。そのため、能舞台がある神社でも能・狂言の上演が久しく行われていないと、本舞台は神楽などにも使用するとしても、使用されない橋掛は改造されたり破棄されてしまう例が残念ながら珍しくないようです。
そしてこの御坂神社の能舞台も、そういう改造が行われた一例のようです。橋掛の、舞台に近い部分は切り取られ通路となり、残りの部分は全体にガラス窓や壁が作られ、小さな部屋となっています。
そして橋掛の先に繋がる楽屋であったらしい建物は、秋祭りで使用される布団太鼓(山車・だんじり)を収める「太鼓蔵」となっています。能舞台が建てられた時代には祭礼の中心が能・狂言だったのかもしれませんが、現在は布団太鼓に移行した結果、このように改造されたのでしょう。
能舞台の形から、神社の祭礼の中心が移行していく様子がうかがえるのではないか…と推測しています。
福王大夫と福王七社
実はこの御坂神社は私が兵庫県内に数多く残る能舞台を訪ねて回ることを決めた際、最初にお訪ねした神社です。突然お訪ねしたにも関わらず、いろいろとお教えいただきました御坂神社の方々に、改めて深く御礼申し上げます。
能舞台は野外のため、使用されない時はシートをかけて保護されていますが、私のために、手間も惜しまずシートをめくっていただいきました。ただただ感謝です。
御坂神社がある三木市を中心とした旧美嚢郡は、兵庫県内でも特に神社能舞台が多い地域です。
美嚢郡には現在のワキ方福王流のもととなった「福王大夫」という能役者がいて、「福王七社」と呼ばれる神社に能を奉納して回っていた、という伝承を御坂神社にてお教えいただきました。そして、御坂神社も福王七社の一つだということです。
三木市内に残る神社能舞台をこれからも訪ねる中で、福王七社のことも追求していきたいと思っています。