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阿倍野区の小町塚は能楽ゆかりの史跡…かも?

大阪市 阿倍野区 小町塚と播磨塚

令和元年(2019年)11月に開催された大阪市阿倍野区能楽講座「能への誘(いざな)い~阿倍野や大阪ゆかりの能を知る」の講師を、筆者が担当させていただいた。

その下調べとして、阿倍野区内にある能楽ゆかりの土地を歩き回った際に訪れた場所の一つが、阿倍野区王子町にある播磨塚・小町塚。播磨塚と小町塚は別々の塚だが、すぐ隣にあり、現地の説明板も、以下のように一緒に書かれている。[1]読みやすいよう少し読点を足した。

播磨塚と小町塚

播磨塚は南北朝の頃、住吉の合戦で南朝の忠臣・楠正行に、山名・細川両将軍が率いる北朝軍が敗れた。敗軍の中には、播磨の太守・赤松円心の子、貞範の率いる播磨の武者も多く戦死した。赤松は将兵の遺骨を納め塚を築き、播磨塚と名付け、部下の冥福を祈った。

小町塚は古書「芦分船」には、小野小町の塚であると説明しているが、小野小町がこの地で死んだという記録はない。この塚は、小町の美貌や才能にあやかりたいとの念願から信仰などの目的のために造られたものと思われる。

阿倍野区史跡顕彰委員会

大阪市 阿倍野区 小町塚と播磨塚

ここで気にしたいのは「小町塚」である。この説明版によると、阿倍野に小町塚の明確な由来はないということになるが、実は能の演目に、阿倍野と小野小町を結びつけるものがある。

その演目とは《卒都婆小町》。この能の概要を、以下に紹介する。

高野山の僧(ワキ)が従僧(ワキツレ)を伴い都へ上る途次、日暮れ方、乞食姿の老女(シテ)が道ばたの卒塔婆に腰を下ろしているのを見とがめ、教化(きょうけ)して立ち退かせようとするが、さまざまの仏教問答の末、僧は老女に言い負かされる。老女の名を聞けば、小野小町のなれの果てであるという。いつしか狂気になり深草少将の霊が憑いた老女は、少将が小町のもとへ通うさまを見せるが、やがて悟りの道へ入っていく。

『能楽大事典』(筑摩書房、2011年)より

能楽における小野小町

あらすじとしては以上だが、もう少し小町や卒塔婆について、深く考えてみたい。

まず小野小町は、『百人一首』の「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」の和歌などで知られる、平安時代中期を生きた女性歌人である。

彼女の事績としてはっきりしているのは『古今和歌集』などに残された和歌だけであるが、一般には、歌人である以上に、日本を代表する美女のイメージは外せない。今時は少なくなりつつあるが、それでも「○○小町」といえば、その特定の界隈で知られた美女の意味として通じ、各種の国語辞典にも取られている。

こまち【小町】(名)
[1]
[一] ⇒おののこまち(小野小町)
[2]
①(小野小町が美人であったというところから)きわめて美しい娘。美人。美女。小町娘。ふつう、その時代やその土地の名の下に付けて、それを代表する美人とする。「天明小町」「日本橋小町」など。〔歌謡・伊勢音頭二見真砂(歌謡集成本)(19C前)〕
※安井夫人(1914)〈森鴎外〉「近所の若い男達は怪訝すると共に嫉んだ。そして口々に『岡の小町が猿の処へ往く』と噂した」

『精選版 日本国語大辞典』(小学館)より コトバンク「小町」より一部省略して引用

能にも「小町もの」と呼ばれる、小野小町を題材にした演目が多くあるが、《草子洗小町》と《通小町》の2曲以外は、すべて老いたのちの、美貌の衰えた姿で登場する。

それに大きくかかわっているのが、平安時代後期に成立した漢詩文『玉造小町壮衰書』である。老いさらばえて町を徘徊する女が、往時の贅沢の限りと親兄弟の死によって零落し悲惨をきわめる老境を綿々と語る…という内容だが、古くから小野小町と混同されて理解されてきた。その背景には、外面的な美しさは時の流れとともに衰えてしまうという仏教的な思想があるとされるが、実在の小野小町にとっては迷惑でしかあるまい。

能《卒都婆小町》の小野小町は、『玉造小町壮衰書』の”玉造小町”の姿をかなり忠実に表していて、老いて腰が曲がって、翌日どころか今日の糧にも事欠くかのような「乞丐人(こつがいにん)」=物乞いをして、なんとか日々を過ごしている。

しかし一方で、ただ老醜を描くだけではなく、そこはかとなく、かつての容貌や気品、そして詩歌を詠む知性を感じさせる役でもあり、そこが一連の「小町もの」の、能楽師にとっては難しさと演じがいに、観客にとってはその表現を楽しむ演目ととなっている。

卒都婆(卒塔婆)とは

一方「卒都婆」とは、古代インドで使われていたサンスクリット語の「ストゥーパ」に由来する言葉で、供養などのために仏舎利や遺物を安置した建物を意味する言葉である。本来は寺院にある仏塔のことだが、現在もっともよく見る機会があるのは、墓地に立てられている板塔婆かもしれない。

板塔婆 卒塔婆

卒塔婆(板塔婆)

なお、「卒”塔”婆」と書くほうが一般的だが、能の演目名としては専ら「卒都婆」が使用されている。この文章では、演目名は「卒都婆」、一般名詞としては「卒塔婆」としている。この能で登場する卒塔婆は、老女となった小野小町が腰をかけるわけだから、仏塔のような大きなものでもなく、一方で、板塔婆では腰かけるには大きさが全く足りない。

小町を論破しようとする僧たちは高野山僧である。これも『玉造小町壮衰書』の作者を高野山を開いた弘法大師空海に擬する説があることの反映かもしれない。そこから、小町が腰かけていた卒塔婆は、やはり高野山の金剛峰寺の参道で有名な、参道に1町(約109メートル)ごとに建てられていた「町卒塔婆」のイメージではないかと思われる。

「町卒塔婆」は、「町石卒塔婆」とも呼ばれるように石で作られたものが有名だが、平安時代末期の寛治2年(1088年)に書かれた『寛治二年白河上皇高野御幸記』には木造である様子が記されている。石造りのものに替えられたのは、鎌倉時代以降の話だ。

《卒都婆小町》の中では、卒塔婆を「朽木」と呼ぶ場面があり、この老女の小町は、木造だった時代の町卒塔婆に腰をかけていたと考えて良さそうだ。

シテ(小町)「仏体色相の忝きと宣へども これ程に文字も見えず 刻める像(かたち)もなし ただ朽木とこそ見えたれ
ワキ(高野僧)「たとひ深山の朽木なりとも 花咲きし木ハ隠れなし いわんや仏体に刻める木 などか証(しるし)のなかるべき

(以下、能の詞章を引用する際、断りがない場合は、観世流大成版謡本による)

《卒都婆小町》の卒塔婆はどこか

さて、前置きが少々長くなったが、《卒都婆小町》と阿倍野が関係あるのかもしれない…と私が初めて気付いたのは、江戸時代に出版された、一般向けの能楽事典『能之訓蒙図彙』を読んでいた時である。

この『能之訓蒙図彙』には「謡目録国付」という部分があり、「高砂 播磨」「八島 讃岐」「野々宮 山城」といったように、能の演目と、その舞台になった地域(当時の呼び方で”国”)の名前が書かれている。

そして問題の《卒都婆小町》に記されている国名は「摂津」である(下の画像の右上のあたり)。摂津国は、現在の大阪府の北部と兵庫県の南東部にあたる。

『能之訓蒙図彙』より謡目録国付

『能之訓蒙図彙』より謡目録国付

とはいえ、これだけで《卒都婆小町》の舞台は摂津であるというわけにはいかない。

やはり能も演劇である以上、作品内部に記されたものを最大の証拠としたい。しかしながら、《卒都婆小町》の言葉(詞章)を、観世流の本文で全て確認しても、舞台を摂津と特定できる箇所はどこにもない。

能には多くの場合、最初のシーンに「道行(みちゆき)」と呼ばれる移動の謡があり、そこに舞台となる場所の地名が謡われるのが一般的だが、《卒都婆小町》の道行は以下の形となっている。

ワキ(高野僧)・ワキツレ(従僧)「生れぬ前(さき)の身を知れば 生れぬ前(さき)の身を知れば 憐むべき親もなし 親のなければ我が為に 心に留むる子もなし 千里を行くも遠からず 野に臥し山に泊る身の これぞ誠の住処なる これぞ誠の住処なる

「千里の道も遠からず」とあるので、移動していることは分かるが、仏教的な内容を謡うばかりで、具体的な地名は全く現れない。ただ、この高野山僧が最初に登場した時の自己紹介に、少ないヒントがある。

ワキ(高野僧)「これハ高野山より出でたる僧にて候 我この度 都に上らばやと思ひ候

僧侶は、高野山から京都へ向かう途中であることが分かる。一方で、小町にも以下のような道行の謡がある。

シテ(小町)「都は人目慎ましや もしもそれとか夕まぐれ
「月もとともに出でて行く 月もとともに出でて行く 雲居百敷や 大内山の山守も かかる憂き身ハよも咎めじ 木隠れて由なや 鳥羽の恋塚秋の山 月の桂の川瀬船 漕ぎ行く人ハ誰やらん 漕ぎ行く人ハ誰やらん

こちらは僧たちの道行よりは多少具体的で、京都から南の鳥羽を経由して、どこかに行く途中であることは分かる。この高野山僧と小町が出会ったのが《卒都婆小町》の物語なので、その舞台は京都と高野山を結ぶ街道沿いだったことは間違いない。

実は金春流謡本に書かれていました

今まで能《卒都婆小町》の言葉について、観世宗家が刊行している『観世流大成版謡本』(檜書店)という本から引いてきたが、実は能には様々な流派が存在する。

能の主役(シテ)をつとめるシテ方の流派だけでも、「観世流」のほかに「金春流」「宝生流」「金剛流」「喜多流」の4流派がある。さらにシテの相手役(ワキ)をつとめるのワキ方には「福王流」「高安流」「宝生流[2]シテ方の宝生流とは別。区別するために「下掛宝生流」「ワキ方宝生流」とも呼ぶ。」の3流派があり、全体的には似ているものの、それぞれの流派の独自の本文を持っている。

観世流以外の流派の本文に、なにかヒントがないだろうか、と探していたところ、ついに見つけた。

金春流の謡本『金春流謡曲百番集』(金春円満井会出版部)には先に引用したワキの道行[3]なお道行の後半が少し観世流と異なり「野に伏し山に泊まるこそ げに捨つる身の習いなれ げに捨つる身の習いなれ」となる。の後に以下の一節が記されていた。

ワキ(高野僧)「急ぎ候ほどに これははや 津の国阿部野の松原とかや申し候 しばらくこの所に休まばやと思い候

観世流謡本と金春流謡本の《卒都婆小町》比較

観世流謡本(左)と金春流謡本(右)の《卒都婆小町》比較

専門用語で「着キゼリフ」と呼ばれる、移動の後に到着地をいう言葉である。実際の能の上演の際には、この言葉が話されるが、シテ方の謡本ではこの金春流の謡本のみに書かれており、ほかの4流派の謡本ではすべて省略されている。

というのも、謡本は能の台本というよりは、それぞれの流派の稽古本という性格が強いためであろう。着キゼリフを抜いても、物語としては成立する、という意味もあるかもしれない。

しかし、この《卒都婆小町》の例のように、能の演目を細かく見ていく際には欠くべからざるものである。そのため、私が能の演目を読む際には、各流派のものを合成してでも、できるだけ何かの本で補っていれるようにしている。

阿倍野区の小町塚は能楽ゆかりの史跡…かも

横道に逸れてばかりだが、金春流の謡本にある着キゼリフによって、能の《卒都婆小町》の舞台が、摂津国[4]「津の国」は摂津国の略表記。『古事記』『日本書紀』には「津国」とあるので、こちらが本来の表記かもしれない。阿倍野[5]現在の大阪市阿倍野区は「阿倍野」表記だが、近鉄の「大阪阿部野橋」駅のように、金春流謡本同様の「阿部野」表記も現代に至るまで混在している。であることが分かった。

しかし、最初に触れた阿倍野区王子町の小町塚が、能《卒都婆小町》ゆかりの塚である、と言い切ることはできない。

そもそも《卒都婆小町》は室町時代に作られた能であって、平安時代の小野小町そのままを描いた作品ではない。そもそも老女の小野小町が登場する一連の能は、先に触れたように『玉造小町壮衰書』の影響を受けたもので、実在の小野小町とはまた別の話である。

そのため、最初の説明版にあったように、阿倍野の小町塚は、実在の小野小町ゆかりの史跡である可能性はほぼない。後世の人物が、小野小町との何かの関連を示すために作ったものの、現在では、その由来が忘れられてしまった塚なのである。

その由来は、もしかしたら、阿倍野が舞台となっている能《卒都婆小町》だったのかもしれない。

長々と記してはきたが、現在、言えることはこの程度である。しかし、近くには能《高砂》に謡われる「岸の姫松」、能《松虫》に登場する「松虫塚」などもあり(これらもあくまで伝承地であるが)、もう少し南に下がれば住吉大社も鎮座する。

能楽ファンならば、ゆっくりと謡を浮かべながら歩き回るのも良いだろう。

播磨塚・小町塚
住所:大阪市阿倍野区王子町4丁目3
アクセス:
阪堺電気軌道上町線「北畠」停留所から東に徒歩6分

脚注

脚注
^1読みやすいよう少し読点を足した。
^2シテ方の宝生流とは別。区別するために「下掛宝生流」「ワキ方宝生流」とも呼ぶ。
^3なお道行の後半が少し観世流と異なり「野に伏し山に泊まるこそ げに捨つる身の習いなれ げに捨つる身の習いなれ」となる。
^4「津の国」は摂津国の略表記。『古事記』『日本書紀』には「津国」とあるので、こちらが本来の表記かもしれない。
^5現在の大阪市阿倍野区は「阿倍野」表記だが、近鉄の「大阪阿部野橋」駅のように、金春流謡本同様の「阿部野」表記も現代に至るまで混在している。
この記事を書いた人

朝原広基

「能楽と郷土を知る会」代表。ネットを中心に「柏木ゆげひ」名義も使用。兵庫県三田市出身・在住。大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜となる。能楽からの視点で、歴史の掘り起こしをライフワークにすべく活動中。詳細は[プロフィール]をご覧ください。

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